蓮生ゆかりの寺社など

目次

1.熊谷山蓮生院(埼玉県児玉郡美里町下児玉235)

蓮生の遺骨が埋葬されていると伝わる旧蓮生院善台寺境内に建つ御堂。

御堂の脇にしだれ桜が植えられており、熊谷桜と地元では呼ばれている。

由緒縁起:『武乾記』(安永元年(1772)刊)には「下児玉村之内熊谷に熊谷次郎直実の墓あり・・・」と記載されている。

また、『武蔵国児玉郡誌』(昭和2年(1927)刊)「十條熊谷蓮生堂の由来」には、文化11年(1814)下児玉の旧家に京黒谷の金戒光明寺から届いた書状が記されている。内容は「熊谷次郎直実公は、建永2年9月4日に75歳で亡くなり、その時に家臣であった下山上総介直明が、蓮生法師の御骨を十条の墳墓に埋め、分骨して黒谷の法然上人の元へ持参し、その半分を五輪塔の下に、残りを宝蔵に納めた。下山直明の嫡子藤九郎、十条の郷に居住す・・・下山大和守信盛の時に、蓮生法師の墳墓を改めて一宇として熊谷山蓮生院と号す。この蓮生院に入道直実公の白骨を葬ると云う事が、当山御廟所の旧記にみえる。直実公の御遺骨を当山に再度分骨していただきたい」と記載されている。

蓮生堂
蓮生堂内石祠と五輪塔

2.大龍山東光院安國寺(埼玉県越谷市大字大泊910)

浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。

由緒縁起:蓮生が当地で草庵を結び、布教に努めたと伝えられる。本尊の阿弥陀如来は、恵心僧都の作であり、蓮生が法然上人より譲られたもので、京都から笈に負って安置したものと伝えられている。

その後、康安元年(1361)紀州国熊野大泊村安國寺の住職誓譽故人が諸国行脚の際、当地を訪れ、荒廃していた寺院を再興し、故郷と同じ寺名を当寺に称したと伝えられる。

また、付近を流れる新方川に架かる橋は、蓮生法師が、東行逆さ馬で、京から熊谷へ帰る途中、この橋にさしかかった際、橋の上で、馬から落ちそうになったが、「南無阿弥陀仏」と唱えたところ、無事に橋を渡ることができた。以後、この橋を念仏橋と呼ぶようになったとの伝承が残されている。

安國寺本堂

阿弥陀如来像

念仏橋

3.熊谷稲荷神社(東京都中央区銀座7-12-9)

御祭神:宇賀乃御魂神 八幡大神 

由緒縁起:直実が源平合戦の後、鎌倉より熊谷に凱旋の際、この地の里人に請われて護持の神札を授けたとされ、江戸の開発とともに当地の祭祀、鎮守として庶民の信仰を集めるようになった。

熊谷稲荷神社

4.定額山浄智院善光寺(甲斐善光寺)(山梨県甲府市善光寺3-36-1)

浄土宗寺院。本尊は、阿弥陀如来。開基は武田信玄、開山は信濃善光寺鏡光空上人。

由緒縁起:永禄元年(1558)に武田信玄が川中島合戦の際、信濃善光寺の焼失を恐れ、本尊善光寺如来像等を奉還したことに始まる。その後、本尊は慶弔3年(1598)信濃に帰座し、新たに前立仏を本尊と定め現在に至る。

知恩院50世鸞宿「武田信玄卿陽善光寺建立記」によると、塔頭3軒、供僧15軒のうち「蓮生庵」と記されている。

関連遺物:蓮生法師木像。この像は、『甲陽定額山内霊像記』に「安置蓮生庵自信州伝来熊谷入道自作像也、此像熊谷入道元久元年十三日鳥羽上品上生弥陀尊前 上品往生願書読姿也。自作影像奉納之伝来安置当寺也」と、また『甲斐国志』第七十四巻蓮生庵の条に「蓮生法師ノ像、熊谷入道ノ作、信州将来ナリ」と記されている。現在この像は、宝物館に、源実朝像とともに展示されている。両像とも甲府市指定文化財。また、金堂内々陣東の間には法然上人座像が安置されている。

善光寺本堂
蓮生法師木像

5.定額山善光寺(信濃善光寺)(長野県長野市元善町491)

天台宗の大勧進と浄土宗の大本願が管理している単位宗教法人で無宗派。本尊は、一光三尊阿弥陀如来。

由緒縁起:推古天皇朝に草庵を結び、三国伝来の一光三尊の阿弥陀如来を本尊とし、642年今の地に堂宇を造営したと伝えられる。

蓮生は度々本寺に詣でている。『善光寺宗派之辨』には「詣善光寺 建久三壬子年熊谷直実女玉鶴亦発心詣善光寺而歿、玉鶴の墓有市村土人所称姫塚者即是也」と記載されている。

善光寺本堂

6.両界山横蔵寺(岐阜県揖斐郡揖斐川町谷汲神原1160)

天台宗寺院。西美濃三十三霊場第一番札所。最澄が、桓武天皇の勅願によって、延暦20年(801)開基と伝えられる。

由緒縁起:元久元年(1204)蓮生が当寺に立ち寄った際、傷みの激しい釈迦堂を眼にし、その再建費用のため来迎釈迦如来像を刻み、念仏会の本尊として持仏堂に安置したと伝えられ、この旨が記された銘が胎内から発見され、この阿弥陀如来像は「熊谷弥陀」と呼ばれている。

蓮生は、晩年、当山の蓮乗院に住し、承元2年(1208)9月に示寂したと伝えられている。

関連遺物:伝蓮生坊笈、蓮生法師墓(宝鏡印塔)など

横蔵寺本堂

7.金足山熊谷院満福寺(岐阜県大垣市墨俣町墨俣212)

浄土真宗大谷派寺院。本尊は阿弥陀如来。

由緒縁起:平安時代に天台宗の寺院として創建されたが、嘉禎元年(1235)直実猶子の小太郎直照が、浄土真宗の宗祖親鸞聖人に帰依して住持となり、祐照を名乗った。その後熊谷氏が代々住持を務め、戦国時代には13代祐鎮が信長との長島合戦に参加して戦死している。その後、天正年間に現在の墨俣へ移転した。

昭和63年(1988)蓮生の遺徳を顕彰するため境内に熊谷堂が建立されている。

関連遺物:直照刻の蓮生像、蓮生房倒騎の図、蓮生房着用の鎧など。

*HPに蓮生房倒騎の図有

満福寺

8.金戒光明寺(京都府京都市左京区黒谷町121)

浄土宗寺院。承安5年(1175)法然上人開山。本尊は阿弥陀如来。

境内を接している蓮池院は、直実が出家し蓮生となって庵を結んだ場所とされる。通称「熊谷堂」。春日局が池に蓮を植え、堂を改宗して名を「蓮池院熊谷堂」と改称した。

境内には、直実が鎧を洗い掛けたと伝えられる直実鎧掛けの松。(2代目の松は2013年に枯れ、翌年に3代目の松が植えられている。)蓮池は、直実が兜を置いたことから「兜之池」とも呼ばれる。 関連遺物:蓮生自作木像、源氏白旗名号、母衣絹の御影、直実入道蓮生一代事績など

光明寺御影堂
鎧掛けの松(2代目)
鎧掛けの松『熊谷蓮生一代記』巻之一

9.聴徳山応声院一念寺(京都府京都市伏見区下鳥羽三町108)

浄土宗寺院。天武3年(674)道昭(629-700)開創。本尊は阿弥陀如来(鳥羽の大仏)。

由緒縁起:承元元年(1207)3月16日、法然上人が念仏停止の罪により土佐に配流となった際、途中当寺に立ち寄り、弟子達と最後の別れをしたと伝えられる。この時、御領帽(僧の着ける帽子、襟巻き)の内に「南無阿弥陀仏」と記し、形見として蓮生に授けたとされ、それが、「御領帽の名號」として軸装され当寺に保管されていることから、「名残の名号の寺」として知られる。門脇にはこれを記した石碑「圓光大師旧跡 名こ里乃御ミやうごう」が建てられている。

蓮生は、念仏三昧院から当寺に参籠して、御本尊の前に座して「上品上生」の誓願をたてたとされている。

永享9年(1437)真阿(1385-1440)が、その遺跡の荒廃を悲しみ、再興し浄土宗に改宗した。

10.小倉山二尊教院華台寺(京都府京都市右京区嵯峨二尊院前長神町27)

天台宗寺院。本尊は、釈迦如来と阿弥陀如来。法然上人二十五霊場第十七番札所。江州三十三観音第七番。円仁が承和年間(834~848)に建立したと伝えられ、その後、建物が失われ衰退したが、法然上人が庵室を造り再興したことから開山としている。

後、荼毘に付された法然の遺骨を法然廟に迎え、念仏の根本道場となった。

元久元年(1204)10月、延暦寺宗徒による専修念仏の停止に対し、非難された事実7箇条を連記して、違背せぬよう法然上人とその門徒198人が署名した「七箇条の御起請文」は、当院のものが原本とされている。この起請文の中に「蓮生」の署名があり、自筆署名と認定されている。

11.清浄華院(京都府京都市上京区寺町通広小路上ル北之辺町395)

浄土宗本山。法然上人二十五霊場第二十三番札所。

由緒縁起:貞観2年(860)に円仁が宮中に禁裏内道場として建立したのが始まりとされている。

関連遺物:熊谷直実書状写、法然上人の返翰など。

説話「押し取り名号」:法然が勢観房源智に授けた名号が、源智の兄弟子の臨終の際に光明を放ち、それを見た蓮生は心打たれ、この名号を奪って関東へ帰ってしまう。

蓮生は、往生のためとありがたい名号を奪ったものの、これが罪となって往生できないのではないのではないかと心配になり、兄弟子の聖光に手紙を送った。これが清浄華院所蔵の「熊谷直実書状」で、これに対する法然の返書が「法然上人返翰」。 法然は書状の中で、それが罪になるかどうかはおいても、人のものを奪ってはならない、すぐに返すべきと諭し、志は憐れであるので、新たに名号を書き、真如堂の阿弥陀如来より授かったといわれる和歌を添えて、蓮生に授けたと伝えられている。

熊谷直実書状写
法然上人返翰

12.五台山清凉寺(嵯峨釈迦堂)(京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ町46)

浄土宗寺院。本尊は釈迦如来。京都十三仏霊場第2番。

由緒縁起:平安時代に奝然により開山された通称嵯峨釈迦堂。

関連遺物:円光大師御消息、蓮生法師誓願状、迎接曼荼羅由来記及び迎接曼荼羅図など、蓮生と法然上人との関係や、蓮生の念仏僧としての在り方を知る貴重な資料となっている。

蓮生法師自筆請願状は、国重要文化財に指定されている。蓮生が元久元年(1204)5月13日、鳥羽で上品上生を発願した際の請願状で、「元久3年10月1日よるゆめにみる」以下の文は、夢記と呼ばれている。両状とも同筆であり、蓮生の自筆と確認されている。

直実自筆請願状
直実自筆請願状

13.魚山大原寺勝林院(京都府京都市左京区大原勝林院町187)

天台宗寺院。法然上人二十五霊場第二十一番札所。本尊は阿弥陀如来。

由緒縁起:長和2年(1013)寂源によって念仏修行の道央として創建。文治2年(1186)勝林院住職の顕真が法然上人を招いて大原問答が行われた際、「師の法然上人が論議にもし敗れたなら法敵を討たん」と法衣の下に甲冑を着て鉈を隠し持っていたが、上人に見つかり、叱り戒められたという話が伝えられている。今でも大原には「鉈捨藪」「腰掛石」「鎧が池」などが残っている。

*大原問答が行われたのは文治2年(1186)で、蓮生が弟子入りしたのは建久4年(1193)なので、史実には合わない。

鉈捨藪 腰掛石
勝林院本堂

14.熊谷山専定寺(烏寺)(京都府京都市東山区本町4-145)

浄土宗西山禅林寺派寺院。本尊は阿弥陀如来。

由緒縁起:寺伝によると、昔、専定法師という旅僧が、この辺りの松の木陰で休んでいると、二羽の烏が梢にとまり、今日は蓮生坊の極楽往生の日である。我々もお見送りしようではないかと語り合い、南の空へ飛び立った。法師が不思議に思い、蓮生坊の庵を訪ねたところ、烏が話していた同日同刻に亡くなっていた。このことから、ここを有縁の霊域と感じ、草庵を結んだと伝えられている。

15.法輪山興善寺(奈良県奈良市十輪院畑町10)

浄土宗寺院。本尊は、快慶作の阿弥陀如来。由緒縁起:もと元興寺の子院であったと伝わる。天正年間に愛誉によって中興。

関連遺物:昭和37年に本尊の阿弥陀如来像胎内より、法然上人と門弟証空らの自筆消息、紙背縁交名状、漆器筒型納骨器が発見され、昭和40年国の重要文化財に指定されている。この一連の自筆書状の中に蓮生の自筆書状「蓮生念仏結縁状」があり、法然上人の書状と共に真筆と断定されている。このことによって、蓮生の筆跡が確定され、それまで真偽の評価がまちまちであった清涼寺所蔵の「蓮生法師自筆誓願状」も真蹟と断定された。

16.海門山満月寺(浮御堂)(滋賀県大津市本竪田1丁目16-18)

臨済宗寺院。本尊は聖観音。江州三十三観音第七番。

由緒縁起:平安時代に恵心僧都が琵琶湖から救い上げた阿弥陀如来を祀るため、湖上安全と衆生済度も祈願して建立したと伝えられる。 念仏三昧院仏殿の完成に際し、御本尊として、6尺8寸の阿弥陀如来立像をこの浮御堂から譲り受け、蓮生がこの仏像を粟生の里まで背負って運んだと伝えられる。

17.応頂山勝尾寺(大阪府箕面市粟生間谷2914-1)

高野山浄土宗寺院。法然上人二十五霊場第五番札所。本尊は千手観音像。

由来縁起:神亀4年(727)、藤原致房の子、善仲、善算兄弟が草庵を築き、仏道修行に励んでいた。その後、光仁天皇の皇子開成が二人に師事して仏門に入り、宝亀6年(775)7月13日、大般若経600巻の書写を終え、弥勒寺を創建した。その後、第6代座主の巡行上人が清和天皇の病気平癒の祈祷を行い、効験があったことから、「勝王寺」の寺号を送られたが、「王に勝つ」という意味の寺号は畏れ多いとして「勝尾寺」とした。治承・寿永の内乱の際、伽藍が焼失したが、建久6年(1195)頼朝の命により、梶原景時、熊谷直実らが力を尽くして再建したと伝わる。

関連遺物:頼朝塔と呼ばれる十三重塔、梶原塔(宝鏡印塔)、直実供養塔(五輪塔)など。

18.高野山熊谷寺(和歌山県伊都郡高野町高野山501)

高野山真言宗寺院。本尊は、大日如来。

由緒縁起:建久元年(1190)、蓮生は敦盛の7回忌にあたり、法要を営むため、法然上人の指示により高野山の当寺(当時は智識院)に寄寓し、敦盛の位牌および石塔を建立し、敦盛の菩提を祈った。以来14年間山に留まり、念仏に専心し、建仁元年(1201)源平両氏の戦死者大追悼会を営んでいる。ある時、法然、親鸞、蓮生が、庭前の井戸の水鏡にて各々の姿を写し、自らその像を彫り、表門脇の圓光堂に安置したと伝えられる。蓮生往生の後、息子直家が亡父の遺命により登山し、堂宇を修築して追孝の法要を営んだ。この事を知った実朝は、蓮生の詠んだ「約束の念仏」の歌と「熊谷寺」と書かれた扁額を寄進し、この因縁により「熊谷寺」と改称した。

関連遺物:蓮生石塔、敦盛石塔、円光大師・見真大師・蓮生自作像、敦盛母衣御影、蓮生陣中御守本尊多宝如来像など。

19.上野山福祥寺(須磨寺)(兵庫県神戸市須磨区須磨寺4-6-8)

真言宗須磨寺派大本山。本尊は、聖観音菩薩。真言宗十八本山霊場。

由緒縁起:仁和元年(886)光孝天皇の勅命により、聞鏡上人が上野山福祥寺を建立し、北峰寺より聖観音菩薩を遷し、本尊としたと伝えられる。

関連遺物:敦盛所持の青葉の笛、蓮生作と伝えられる敦盛像など。境内に敦盛首塚、義経腰掛松、敦盛首洗池など。近年、源平の庭がつくられ、直実と敦盛の馬上姿の銅像が建立されている。

20.円浄寺(旧正福寺)(香川県仲多度郡まんのう町東高篠1196)

浄土宗寺院。

由緒縁起:かつては白紫山中之坊仲津山生福寺と言い、建永2年(1207)讃岐に流された法然上人がこの寺に留まり、念仏を広め浄土宗寺院となった。法然上人御手植松之跡が残る。

関連遺物:蓮生所持の指擦之鉦鼓。伝承で、次のような話が伝わっている。

蓮生は70近い老齢であったが、頑強で瀬戸の海を渡り、讃岐路を急いだ。京の鳥羽の港での法然上人の優しい笑顔が瞳に焼き付いていた。道中肌身離さず持っていた鉦にこみ上げる思いを込めて指で念仏を擦り込んでいった。一日に影念仏6万遍とも伝えられている。蓮生の思いが鉦の金属の固まりの真ん中に指擦りのくぼみが出来た。

*蓮生が法然上人の後を追って讃岐まで訪ねたという史実は無い。

円浄寺本堂

21.熊谷墓(熊谷堂)(香川県仲多度郡まんのう町高篠中分下1144)

御堂の中に、蓮生供養の五輪塔がある。この供養塔は、愛弟子蓮生の死を知らされた法然上人が供養のために建てたと伝えられている。この御堂は、元は円浄寺の一部であったといわれる。

熊谷墓
蓮生供養の五輪塔

22.蓮生住居跡(香川県高松市香南町西庄332)

御堂の中に祭壇が組まれ、中央に「南無阿弥陀仏 熊谷屋敷跡」と掘られた石碑が建てられている。『熊谷入道遺跡略縁起』によると「・・・平家の軍は、讃岐屋島に拠る。源氏は之攻める敵味方の将兵戦死者多し。弥陀の御本願を裁いた熊谷は取る物も取り敢えず屋島に来られた。特に源氏の軍は兵機軍馬の集散地、千疋池西に来る。此の地を昔より老人の云ひ伝えてあり・・・此の土地を現在田畑に改め御名号の有る所が熊谷屋敷その南側の土地が堂の前と云う・・・」と記されている。

蓮生住居跡
蓮生住居跡内部祭壇

23.源海山紫雲院西光寺(香川県仲多度郡まんのう町十郷宮田148)

浄土宗寺院。本尊は、阿弥陀如来。

由緒縁起:讃岐に入った法然上人が最初に布教した場所とされており、寺に伝わる『法然上人遺像略縁起』には、蓮生について「又御随送ノ熊谷自作ノ遺像ト共ニ末ノ世迄モ永ク当所ニ留メ置キ給ヘバ流レヲ汲ムノ輩ハ生身ノ大師ニ拝顔シ奉るル思ヲナシテ御恩報謝ノ称名ノ声諸共ニ謹ンデ御拝遂ゲラレマセウ」と記されている。

関連遺物:法然上人像、熊谷入道像など。

西光院本堂

24.百々の辻(香川県仲多度郡琴平町苗田290)

配流された法然上人を追いかけ、讃岐に入った蓮生は、一日でも早く上人に会いたいと方々を訪ね歩き、ようやくこの辻で再開でき、「百年も会わなかったように思える」と子弟が喜び合ったということから、「百々」というようになったといわれている。