コラム

1.直実・蓮生法師の生没年について ~『吾妻鏡』と「法然上人絵伝」~

直実・蓮生法師の生涯において、数多くの功績や伝承が、様々な資料や記録を通じて現在まで伝えられていることは、皆さんもご承知のことと思います。しかし、直実・蓮生法師の生没年は?もしくは、没した場所は?と問われると、はっきりとしない部分が数多くあります。
生没年を調べる時に、大きな手がかりとなるのは、その家に伝えられている「系図」です。ただし、「系図」は江戸時代になって自分の家の由緒を訪ねるときに、なるべく“よい血筋”に繋げるように様々に作り変えられたり、操作されたりしているので、史料として取り扱うには非常に注意が必要です。しかしながら、大きな手がかりにはなります。
 熊谷氏に関して言えば、現在までに伝えられている主な「系図」だけで五種類もあり、それぞれの「系図」で直実・蓮生法師の項に注記があります。それをまとめたのが表1です。
 この表を見ると、一人の人物であるのに、実に様々な生没年が記されていることがわかると思います。生年に関しては、数多くの記録で永治元年(1141)の生まれであると記されていますので、だいたいこのぐらいの年に直実・蓮生法師が生まれたであろうことが推測できます。
 しかし、没年さらには享年に関しては、それぞれの記録で全く違ってきてしまいます。没年に関しては、承元元年(1207)から承元三年(1209)の9月4日か9月14日、享年はそれに対応した年齢ということになります。
 また、没した場所についても様々な説が伝えられています。中でも代表的な説は、『吾妻鏡』の説と「法然上人行状絵図」48巻伝のうち第27巻の説といえるでしょう。この2つの資料の直実・蓮生法師の亡くなる場面を、原文のまま掲載すると次のようになります。

◆『吾妻鏡』関連記事(『国史大系』本より抜粋)

・承元二年(1208)九月三日条
 九月小○三日庚子、陰、熊谷小次郎直家上洛、是父入道来十四日於東山麓可執終之由、示下之間、為見訪之云々、進發之後、此事披露于御所中、珍事之由、有其沙汰、而廣元朝臣云、兼知死期、非権化者、雖似有疑、彼入道遁世塵之後、欣求浄土、所願堅固、積念佛修行薫修、仰而可信歟云々、
・承元二年(1208)九月二十一日条
 廿一日丁亥、東平太重胤号東所、遂先途、自京都帰参、即被召御所、申洛中事等、先熊谷二郎直實入道、以九月十四日未尅可為終焉之期由相觸之間、至當日、結縁道俗圍繞彼東山草庵、時尅、着衣袈裟、昇礼盤、端坐合掌、唱高聲念佛、執終、兼聊無病気云々、(下略)

新刊吾妻鏡巻19 国立国会図書館デジタルコレクション

◆「法然上人絵伝」四十八巻伝のうち第二七巻の第五段

【第五段】
建永元年八月に、「蓮生は明年二月八日、往生すべし。申す所若し不審あらん人は、来りて見るべき」由、武蔵国村岡の市に札を立てさせけり。伝え聞く輩、遠近を分かず、熊谷が宿所へ群集する事、幾千万という事を知らず。既に其の日になりにければ、蓮生未明に沐浴して、礼盤に登りて、高声念仏躰を責める事、譬えを取るに物なし。諸人目を澄ます所に、暫く在りて念仏を止め、目を開きて、「今日の往生は延引せり。来る九月四日、必ず本意を遂ぐべし。その日、来臨あるべし」と申しければ、群集の輩嘲りをなして帰りぬ。妻子眷属、「面目なき業なり」と嘆きければ、「弥陀如来の御告げによりて、来る九月を契る所なり。全く私の計らいにあらず」とぞ申しける。さる程に、光陰程なく移りて、春夏も過ぎにけり。八月の末に聊か悩む事ありけるが、九月一日、空に音楽を聞きて後、更に苦痛なく、身心安楽なり。四日の後夜に沐浴して、漸く臨終の用意を為す。諸人、又、群集する事、盛りなる市の如し。既に巳刻に至るに、上人、弥陀来迎の三尊、化仏・菩薩の形像を一鋪に図絵せられて、秘蔵し給いけるを、蓮生、洛陽より武州へ下りける時、給わりたりけるを懸け奉りて、端坐合掌し、高声念仏熾盛にして、念仏と共に息止まる時、口より光を放つ。長さ五、六寸ばかりなり。紫雲靉靆として、音楽髣髴たり。異香芬郁し、大地震動す。奇瑞連綿として、五日の卯時に至る。翌日、子刻に入棺の時、又、異香・音楽等の瑞、前の如し。卯時に至りて、紫雲西より来りて、家の上に留まる事、一時余りありて、西を指して去りぬ。これらの瑞相等、遺言に任せて、聖覚法印の許へ記し送りけり。往生の霊、異頗る比類稀なる事になん侍りければ、「真に上品上生の往生、疑いなし」とぞ申し合いける。

「法然上人絵伝」第二七巻 埼玉県立熊谷図書館蔵

 この二つの資料の記述から、直実・蓮生法師が没した場所は、京都東山(現在の蓮池院熊谷堂のあたり)と、武蔵国村岡の市(現在の熊谷市村岡のあたり)の二つの説が伝わっていることがわかります。
 さて、どちらの説が正しいのか?と問われると、大変難しい問題となります。『吾妻鏡』は鎌倉幕府が編纂したとされる歴史書ですし、「法然上人行状絵図」四十八巻伝は、浄土宗の開祖法然上人とその弟子たちの業績について、様々な資料・古文書に取材しながら描かれたことがわかっています。また両方の資料とも、成立した年代が、現在の研究では14世紀初めの頃と考えられていますので、実際に直実・蓮生法師が亡くなった時に作成された資料ではありません。
 しかしながら、このように京都や熊谷、様々なゆかりの資料を見てみると、直実・蓮生法師が浄土宗の教化のために、様々な土地へ赴いて多くの民衆にその教えを説き、また『平家物語』に表されるような武士として、さらには浄土宗の僧侶として、全国各地にその人となりに関する人気の広がりがあることがわかりますから、没した場所についても、このような様々な伝承の中で、現在に伝わってきたものと考えられます。

2.直実・蓮生法師にまつわる逸話・伝承・文芸作品について

 直実・蓮生法師やそれを取り巻く人々・事柄に関する逸話や伝承は、今日に至るまで時には古文書史料記録・文学作品、絵画資料、物資料をとおして、様々な形で伝えられてきています。
直実・蓮生法師に関する逸話・伝承としての主なものは、

  • 金戒光明寺の鎧掛けの松の逸話
  • 月輪殿での逸話
  • 鉈捨て薮の逸話
  • 予告往生の逸話
  • 十念質入の逸話
  • 東行逆馬の逸話
  • 金色の名号に関する逸話
  • 熊谷奴稲荷の逸話
  • 愛馬権田栗毛に関する逸話

などがあります。『平家物語』の「敦盛最期」に関する一騎打ちの話や、延慶本『平家物語』などに記載されている「直実送状」「経盛返状」に関しても、文学作品の中の一説としての話とすれば、逸話の部類に入るかもしれません。

『熊谷蓮生一代記』巻之六「蓮生藤枝の宿にて念仏奇随の図」
熊谷市立熊谷図書館蔵
『木曽路名所図会』巻之四「東行逆馬の絵」
熊谷市立熊谷図書館蔵

また、取り巻く人々に関する逸話・伝承も数多くあります。

  • 敦盛と如佛尼に関する逸話
  • 長野佛導寺の玉鶴姫に関する逸話
  • 熊谷福王寺の玉津留姫に関する逸話
  • 熊谷養平寺の千代鶴姫に関する逸話

など、直実・蓮生法師との関連で、ゆかりのある寺院・場所において様々な逸話がいまに伝えられています。
 こうした逸話・伝承が、全国各地で語り継がることで様々な記録・文学作品などに記されることになり、江戸時代の人形浄瑠璃・歌舞伎などの文芸の世界にも広がりを見せて行くことになります。文芸作品にとっても、逸話・伝承に描かれた場面は、作品中の大きな「見せ場」であり、人々の感動を誘う場面となって、さらなる直実・蓮生法師の人気へと繋がっていきました。
 直実・蓮生法師に関する演目としては、人形浄瑠璃の作品として「須磨都源平躑躅」が享保一五年(1730)に、「一谷嫩軍記」が宝暦元年(1751)に成立し、それが歌舞伎の世界で演じられるようになります。特に「一谷嫩軍記」の三段目「熊谷陣屋」の段がその劇的な物語構成とあいまって爆発的な人気を呼ぶようになると、その時代の名優が熊谷直実を演じ、今日でも人気の演目として多くの観客を呼んでいます。
このような歌舞伎などの名場面は、江戸時代に生まれた浮世絵の題材として、多くの絵師によって描かれるようになります。直実・蓮生法師が武者絵として描かれる場合は、源平合戦における数々の戦場での活躍ぶりをそのままに描き、役者絵として描かれる場合は、幾多の名優が演じた名場面をそのまま切り取るように描かれています。こうした浮世絵は、現代のブロマイド的な感覚で一般庶民に広まり、直実・蓮生法師の人気を確固たる物にしました。

須磨都源平躑躅の熊谷直実(熊谷市立熊谷図書館蔵) 
 熊谷陣屋の蓮生法師(熊谷市立熊谷図書館蔵)

さらに、能の世界においては謡曲「敦盛」があります。これも『平家物語』の「敦盛最期」をもとに、世阿弥が編作したものです。
出家し、蓮生法師となった直実が、敦盛の菩提を弔うために須磨の浦に赴いた際、敦盛の霊が現れて平家一門の栄枯盛衰を語り、敵である直実にやっと巡り会えたと仇を討とうとしますが、すでに出家した身を見てもはや敵ではないと悟り、「極楽浄土では共に同じ蓮に生まれる身になろう」と言い残して姿を消します。優雅な舞の中に、敦盛の哀れさを醸し出した、心に迫る演目となっています。

敦盛の能版画:月岡耕漁(1869-1927)

また、幸若舞にも「敦盛」という演目があります。これは『信長公記』という織田信長の生涯を記した書物の中に、桶狭間の戦い前夜、この「敦盛」の一節を謡い舞った後、出陣したということが書かれているため、非常に有名になりました。「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり」という一節は、聞いたことがある人も多いかと思います。

『あつもり』(幸若舞集)寛永年間刊 国立国会図書館デジタルコレクション

その他にも、「直実節」などといった踊りの曲や、文芸作品だけではなく、動植物の中にも直実・敦盛の名前を冠するものがあります。「直実節」には、一番と二番の間に、先ほど紹介した「敦盛と忠度」の一番が挿入されています。

 一ノ谷の 軍破れ
 討たれし平家の 公達あわれ
 暁寒き 須磨の嵐に
 聞こえしはこれか 青葉の笛

このように様々な文芸作品の中に取り上げられることで、歴史史料からだけではなく、また直実・蓮生法師が生きた鎌倉時代だけではなく、ジャンルを越えて、時代を越えて、厚みと深みをました人物像が描かれることで、多くの名優が語り継ぎ、多くの観衆・聴衆の涙を誘い、名演目として現在まで伝えられています。
こうした、いうなれば「直実・蓮生法師人気」の中で、伝承や逸話を題材として様々な分野において取り上げられるようになります。
歴史史料からだけではなく、こうした逸話・伝承が、平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した直実・蓮生法師を、現代まで時代を超えて語り継ぐ存在にした、最大の「貢献者」ということができるでしょう。

3.大田南畝(蜀山人)の狂歌

江戸時代に熊谷直実と平敦盛の関係にかけて作られた文芸作品は数多くありますが、特に中山道の宿場町であった熊谷宿での出来事としての言い伝えに次のようなお話があります。
江戸時代の中頃、熊谷上町(現在の本町一丁目)から横町(現在の鎌倉町)へ曲る角の所に「角屋」といううどん屋があった。ある朝、表の戸を開けると間もなく、旅の僧と思われる妙な風采の男が店先にきて「うどんを一杯くれ。」という。番頭は「朝からうどんはない。」と断ると、そのご仁はすごすごと熊谷寺門前の方へ去っていく。
主人が聞きつけて「朝からうどんを食べにくるのは、よほど好きな人だろうから、呼び戻して打って食べさせてやれ。」というので、番頭は表へ飛び出して「おーい、おーい。」と呼びかけた。
 その男は後を振り向き、手招きしているのをみて、のこのことこちらへ帰って来て、帳場に腰をおろして主人とよもやま話をしているうちに、うどんが出来あがる。それを食べてしまうとその男は、主人に向かって「一つ歌をかいてやろう。」と言った。
昔はよく杉の薄板でこしらえた柱隠しの「聯」というものがあった。幅三寸五分(約12㎝)、長さ四尺五寸(約130㎝)ぐらいで、たいがいは上に日の出、下に松や鶴を描いたものだった。主人がそれを出すと、裏返しにして先のきれた帳場筆で、
「おーいおーいと呼び戻し わづか二八のあつもりを 打って出したる 熊谷の宿 蜀山人」
と書き、そのまま、また西へ向かってすたすたと行ってしまった。
前の歌のうち「二八」というのは、その頃はうどん一杯十六文であったのを、平敦盛の年の十六(二×八=十六)に掛けて詠んだものである。」
 このお話しは、『平家物語』で描かれている、熊谷直実が一ノ谷の戦いで逃げていく平敦盛を呼びもどしたとするお話しと、うどん屋の番頭が大田南畝を呼びもどしたこと、そしてうどんの値段の十六文と二×八=十六の、一ノ谷の戦いのときに十六歳であったとされている平敦盛の年齢とをかけた狂歌として伝わっているお話です。 (林有章著『幽嶂閑話』より)

大田南畝像:鳥文斎栄筆 東京国立博物館蔵

4.ほやに向かい鳩

 熊谷氏の家紋は二匹の鳩が向かい合う「向かい鳩」と呼ばれる家紋が有名です。これに植物の宿り木(ツタ性の植物)の古名である「ほや」と合せて、「ほやと向かい鳩」とする場合もあります。この家紋が熊谷氏の家紋となった言い伝えが、熊谷市の熊谷寺に伝わる「熊谷氏系図」に書かれています。
 「…石橋山の合戦の時に、頼朝は平家方に負けてしまって、真鶴まで逃げてきたが、敵に追いかけられてしまってもうどこにも逃げられない。「ここで自害しよう」と頼朝が刀に手をかけたところ、直実が頼朝のところへきて刀に手をやり、「それは口惜しい振る舞いです。梶原も言っていましたが、まずお命を全うしてください。」と言い、栗の木のウロがあったので、その中に頼朝を押し込め、その前にほや(ツタ)を折り被せて頼朝を隠した。
そして直実もこの木の前に隠れていたところ、梶原景時がやってきた。梶原はこの時までは平家方であったが、内々には平清盛に恨みがあって、どのようにして源氏方につこうか考えていた。真鶴までは平家方として頼朝を追いかけてきた所に、直実がすっと出て、梶原の馬に体を寄せて言うことには、「内々に源氏方のお味方になるとのこと、それはこの時です。急いで来てください。もしお味方にならないのであれば、私と刺し違えましょう。」といった。梶原がそれを聞いて「大将軍(頼朝殿)は」と尋ねたので、「今朝未明に安房国へ渡しました。直実一人を残し置きました。」と言ったところ、梶原がこっそりというには「頼朝とお会いしたいが、今は平家方が続々と追いかけてきている。日が暮れたころにここに来よう。そのときに直実と話がしたい。」と言ってここを探さないような仕草で通り過ぎようとした。
こうしていたところ、また後から平家方の武士が一騎きていうには、「頼朝はこのあたりまで逃げてきたのだろうか。梶原殿は何でしっかりと探さないのか。」と疑ったので、梶原はとても怒り、「今まさに探そうとしていたところだ。」と言った時、この木のウロから鳩が二羽飛びだした。それを見て梶原は「あれを見よ。人が隠れているならば、鳩はこのウロに出入りはしないだろう。」言ったので、それももっともと、平家方の武士は通り過ぎた。
後から続いてきた平家方の武士たちも、梶原が通り過ぎたのを見て、この木を探そうとした武士はいなかった。この鳩は、すなわち八幡様が頼朝をお守りなさったのだと後から皆で語ったものだ。このことから、頼朝は、八幡様は源氏の氏神であるが、特に信仰を深くしたとのことだ。
そうしているうちに日が暮れ、梶原がこの木のところへきて直実を呼び出し、事の子細を重ねて丁寧に話したところ、直実は木のウロから頼朝を出させ梶原と合せた。二人とも大いに喜び、この時から梶原は頼朝の臣下になった。内々に源氏方にお味方しようという武士たちが続々と頼朝の臣下になったので、東国には敵はなし、として二十万の坂東武者で平家方を倒した。この故事により、直実が頼朝の命を救った忠節は海よりも深く、山よりも高いとして、後の世にも伝えていくようにと、頼朝から「蔦(ほや)に鳩」を熊谷家の家紋としていただいた。…」と書かれています。
この故事により、熊谷家の家紋は「ほやに向かい鳩」もしくは「向かい鳩」となったということです。現在でも歌舞伎の「熊谷陣屋」の演目で、張られる陣幕には「向かい鳩」が書かれていますし、熊谷氏の子孫の一家である東京銀座・鳩居堂は屋号に「鳩」を用い、店舗の看板にも「向かい鳩」の家紋を使用しています。

「石橋山・江島・箱根図」東京国立博物館蔵
出典:ColBase(https://colbase.nich.go.jp)
熊谷寺別院蓮生寺(念仏堂)瓦
熊谷市立熊谷図書館蔵