絵はがき

1.歌舞伎など

歌舞伎等絵はがき:新富座、歌舞伎座、帝国劇場などで行われた歌舞伎や浄瑠璃の舞台や役者を写した絵はがきが、銀座上方屋や本郷矢吹高尚堂で発行され、人気を博した。その中に『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」に関する絵はがきも発行されていた。

(新富座熊谷陣屋)熊谷次郎直実(吉右衛門)

明治40年~大正7年:銀座上方屋発行

初代中村吉右衛門(明治19~昭和29年):歌舞伎役者。屋号は播磨屋。新富座で『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実を演じた際の写真。この衣装で待機していた時、知人に話しかけられても「熊谷が返事できるわけがない」と言って無視し続けたという話が伝わる程、役に成りきり演技をした。

歌舞伎座(一谷嫩軍記)熊谷次郎直実(吉右衛門)

大正8年6月:銀座上方屋発行

初代中村吉右衛門(明治19~昭和29年):歌舞伎役者。屋号は播磨屋。歌舞伎座で『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の熊谷次郎直実を演じた際の写真。馬上で扇をかざし、平敦盛を呼び止めようとしている場面。

歌舞伎座(一谷嫩軍記)無冠太夫敦盛(福助)

大正8年6月:銀座上方屋発行

5代目中村福助(1900-1933)。歌舞伎役者。屋号は成駒屋。歌舞伎座で『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」の平敦盛を演じた際の写真。 美形で気品ある芸風で人気を集め、時代を担う若手の花形役者として将来を嘱されたが、33歳で急死。

帝国劇場第十八回興行中幕(一谷嫩軍記)熊谷陣屋の場

明治40年~大正7年:東京本郷矢吹高尚堂発行

帝国劇場で行われた『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」での場面。子を失い生きる意味を失った直実は、髪を剃り落として出家の意思を義経に伝え、黒染めの衣をまとって、法然のもとに立ち去る場面。

左より、堤軍次、相模、直実、義経、弥陀六、藤の方。 熊谷陣屋は、須磨に置かれた直実の陣屋。上部の幕や襖には向かい鳩が描かれている。

帝国劇場正月興行(扇屋熊谷)御影堂の場

明治40年~大正7年発行

帝国劇場で行われた、『源平魁躑躅』(通称扇屋熊谷)「御影堂」での場面。京都五条の扇屋に扇折小荻としてかくまわれていた敦盛のところへ、直実が扇子を求め訪れた場面。

(帝国劇場熊谷陣屋)熊谷直実(幸四郎)

明治40年~大正7年:銀座上方屋発行 帝国劇場で行われた『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」で、七代目松本幸四郎(1870-1949)が演じる直実が、討ち取った敦盛の首を、義経に差し出す場面。

文楽人形浄瑠璃『一谷嫩軍記』「熊谷陣屋」

昭和28年発行

吉右衛門の熊谷直実

昭和15年発行。一谷嫩軍記の熊谷直実(中村吉右衛門)が敦盛の首桶を持っている場面。

表面には「奉祝紀元二千六百年 尾上菊五郎、中村吉右衛門両座合同二月興行 第一一谷嫩軍記 陣屋 第二太閤記 四幕 第三汐汲 鳥羽輪 第四松浦の太鼓 一幕 第五舞踏劇 我が大八洲 四場 御観劇料 一等七圓七十銭 二等五圓 三等三圓八十銭 梅席二圓 菊席一圓 木挽町 歌舞伎座」と記載。

(國技館大菊花)五段返しの内(一)石橋山

明治40年~大正7年発行。

両国国技館で行われた菊人形興行で、石橋山の戦いにおいて、頼朝が巨木の洞に身を隠している場面を再現したもの。段返しとは、乃村泰資(1873-1948)が考案した舞台演出方法で、舞台の奈落からのせり上げ、天井からの吊り下げ、舞台袖の書き割りを駆使して、大道具方、照明技師、お囃子連中などが連携して複数の場面を見せるもの。

2.名勝など

名勝等絵はがき:直実・蓮生、敦盛関連の名勝等の絵はがきを紹介します。

須磨名所敦盛塚

大正7年~昭和8年発行

兵庫県神戸市須磨区一の谷の須磨浦公園内に建てられている敦盛の供養のために建てられた五輪塔。室町時代後期から桃山時代にかけて制作されたものと推測されている。高さは約4mで、京都石清水八幡宮五輪塔に次いで日本で2番目の大きさの五輪塔。大正時代には子供の病気の神様として信仰され、お礼参りには敦盛愛用の「青葉の笛」になぞらえて、穴を開けた竹に白紙を巻き、水引をかけたものを奉納した。

(須磨名所)敦盛塚

昭和8年~昭和22年発行

敦盛供養の五輪塔の前には、覆屋が建てられ、奉納された石製の鉢が置かれ、焼香台となっている。

須磨寺寶物 高麗笛覚祐上人作 敦盛公ノ鎧

明治40年~大正7年発行

須磨寺宝物の厨子に納められた敦盛の笛と鎧が写されている。

一の谷敦盛塚

明治40年~大正7年発行

須磨の敦盛供養塔の写真と、敦盛そばを売る店のイラストが描かれている。

摂州一の谷敦盛塚ト名物そばや

明治40年~大正7年発行

角塔婆の立てられている一の谷敦盛塚とその脇にある名物そばやの写真に「THE TOMB OF ATSUMORI AND THA NOTED PRODUCT SOBAYA ,SUMA NEAR KOBE」と印字されている。背面には敦盛の五輪塔の前を通る旅人のイラストが描かれている。

須磨一の谷蕎麦賣口上

明治40年~大正7年発行

須磨の敦盛供養塔の写真と、敦盛そば売口上が記載されている。

「須磨一の谷蕎麦賣口上

敦盛蕎麦あんばいハ義経 熊谷乃大茶わん鉄拐山盛 それと志りつついくらも九郎判官 うどんハ志ろい玉織姫 酒ハ源平つつじ乃諸白 熊谷の大盃で一杯呑ハ顔ハ弁慶 大喰のお客は茶やのよしつね くいにげ志たれバ後はむさし坊 お茶はセつたい薩摩の守ただ呑み 座しきは千畳敷 泉水ハ帆かけ船 紀州熊の浦までヤリツ放し也

めいぶつそバを喰ねばならぬ須磨のうら あつもり蕎麦を喰てみだ六の茶屋なれば喰わずにいねば気の須まん寺」

「蕎麦あんばいは義経」は蕎麦の塩梅は良し(つね)、「鉄拐山」は、義経が逆落としで下った山、「薩摩の守」は一の谷の戦いで岡部忠澄に討たれた平忠度、「ただ呑み」は義経の家臣佐藤忠信、「みだ六の」は弥陀六(平宗清)のこと、「須まん寺」は須磨寺等、語呂合わせ(地口)が良い口上となっている。

(須磨名所)須磨寺本堂

昭和8年~昭和22年発行

兵庫県神戸市須磨区に所在する真言宗須磨寺派の本山「須磨寺」の本堂。

須磨寺境内敦盛卿首塚

明治40年~大正7年発行

兵庫県神戸市須磨寺境内の敦盛墓所(首塚)。寿永3年(1184)2月7日の一の谷の戦いで、直実に討たれ戦死した敦盛の菩提を弔うために建立されたもの。祠の中には五輪塔が納められている。須磨公園にある敦盛塚には胴体が、こちらには首が祀られていると言われている。

(須磨名所)古戦場鉄拐山

昭和8年~昭和22年発行

六甲山系の兵庫県須磨区と垂水区の酒井にある、標高237mの山。

一の谷の戦いにおいて、源義経が逆落としで駆け下ったのは、鉄拐山の東南斜面ともいわれている。

高野名勝 熊谷寺ト毘沙門堂圓光堂

大正7年~昭和8年発行

和歌山県高野山熊谷寺境内。手前より毘沙門堂、円光堂、宿坊が写る。

高野山 奥の院 熊谷敦盛及親鸞聖人の墓

明治40年~大正7年発行

和歌山県高野山の奥の院に並ぶ直実と敦盛の供養塔。写真右隅の五輪塔が敦盛、その左側の大きい五輪塔が直実のもの。

敦盛の五輪塔には、「為敦盛公室顔 璘□大居士 元暦元辰二月七日 直実立」と刻まれており、直実が法然上人のもとで出家して、高野山に在住した時に、一谷の戦いで自分が手にかけた敦盛を弔うために建てたものとされている。

京都 黒谷熊谷鎧掛の松

明治40年~大正7年発行

京都市金戒光明寺の御影堂前にある、直実が建久四年(1193)に黒谷の法然上人を訪ね、方丈裏の池で鎧を洗い、松の木に鎧を掛けて出家したと伝わる松。

平成25年9月に写真に写る二代目の松が枯れ、現在は三代目の松が植えられている。

京都 黒谷金戒光明寺熊谷墓

明治40年~大正7年発行

金戒光明寺に所在する直実の供養塔(五輪塔)。左の木柱には「熊谷法力坊入道蓮池法師」と記されています。

京都 黒谷金戒光明寺敦盛墓

明治40年~大正7年発行

金戒光明寺に所在する敦盛の供養塔(五輪塔)。左の木柱には「太夫敦盛空顔璘荘大居士」と記されています。

京都 黒谷蓮池院熊谷堂

明治40年~大正7年発行

蓮生が庵を結んだ場所とされ、応安7年(1374)熊谷直安によって再興された。通称「熊谷堂」。春日局が池に蓮を植え、堂を改修して「蓮池院熊谷堂」と改称した。

写真には、石橋の奥に瓦葺の御堂が建ち、「熊谷堂」と書かれた額の下に、僧が立っている。向鳩の記念スタンプが押されている。

明治三十九年小松春期祭 八日市町曳山(扇屋熊谷)

明治6年~明治40年発行

明和3年(1766)に始まったとされる、石川県小松市八日町で行われている春期祭の曳山子供歌舞伎の演目で「扇屋熊谷」を演じている。

熊谷次郎直実と平敦盛

明治40年~大正7年

発行 一谷の戦いでの熊谷次郎直実と平敦盛を描いた錦絵。「源平の驍勇 腕と頸との ちのら□競ひ各功名を後の世□轟□□」と記されています。

熊谷直実と敦盛

明治40年~大正7年発行

一の谷の戦いでの熊谷次郎直実と平敦盛を描いたもの。

敦盛卿 摂津須磨一ノ谷合戦

明治40年~大正7年発行

一の谷の合戦で、直実に呼び止められた敦盛を描いたもの。

直実敦盛 須磨一の谷源平の戦

大正7年~昭和8年発行

パノラマ写真風の2枚綴りの絵葉書。「須磨一の谷源平の戦」 馬上で母衣を背負い、扇を挙げて、沖の敦盛を呼び止める直実と敦盛が描かれている。

3.熊谷寺

熊谷寺等絵はがき:熊谷寺に関する絵はがきを紹介します。

(熊谷名勝)熊谷寺 大正4年頃

蓮生法師700年忌法要の様子を写したもの。

本堂正面の参道上には、角塔婆が立てられ、柱上部に結びつけられた五色の紐が、本堂内の御本尊へとつながっている。

角塔婆の正面には、梵字で、キャ:十一面観音菩薩、カ:地蔵菩薩、ラ: 羅喉星、バ:薬王菩薩、ア:大日如来と書かれ、その下には「奉修開山蓮生大法師二拾五萬二千二百日供養之寶塔」と書かれている。この他、角塔婆の奥にもう一本上部が布で覆われた新しい角塔婆が立てられており、下部には「大慈恩塔」の文字が書かれている。

蓮生法師の没年が建永2年(1207)であることから、252,200日(690年)後は、明治30年(1897)となる。本堂は安政元年(1855)に火災に遭ったものが、明治40年(1907)4月10日蓮生法師700年忌を期して上棟し、大正4年(1915)落慶したもので、再建後に改めて法要が行われたことが推測される。

本堂には「檀徒有志者」寄附による八つ割萬生紋が描かれた幕が下げられており、「明治四十年四月十日」と記されている。本堂入口には「戒壇めぐりできます」の貼紙が掲げられている。

熊谷直実墓石(熊谷寺境内) 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺境内の直実の墓と伝わる宝鏡印塔(ただし、頭頂部は五輪塔の空風輪部)。市内では唯一の二重式宝鏡印塔。

「往昔熊谷直実一の谷の戦後 法然上人の弟子トなり蓮生と號し念佛弘通の誓願を起し京都黒谷を去りて己が所領地たりし熊谷に帰り草庵を結ぶ是れ関東最初の念佛道場なり斯くて建永二年九月遂ニ當寺に寂しぬ即ち墳墓是なり古色蒼然掬すべし」と記載されている。

熊谷寺山門と鐘堂(熊谷寺発行) 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺の山門と鐘堂を写したもの。門柱には「花まつり」の紙が貼られている。門右手には「熊谷蓮生法師舊蹟」と刻まれた石柱と、その前に「四月自六日至一五日 開山熊谷蓮生法師開帳」と記された立て札が立てられている。右の鳥居は、熊谷奴稲荷神社。

熊谷直実の廟 熊谷寺境内に有り(伊藤書店発行) 明治40年~大正7年

瓦葺きの蓮生法師廟が写り、手前の四脚門には「熊谷蓮生法師廟」と記された看板が掲げられている。右手の塚状の高まりの上には石碑が2基建てられている。

後方に、明治12年から大正15年の間に置かれた大里郡役所の建物が写る。

(熊谷名勝)熊谷寺 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺本堂と山門が写る、手彩色絵葉書。表門の脇には塀ができておらず、左側には狐の乗る石門柱と石碑が建てられている。

(熊谷名勝)熊谷寺前門の景(熊谷驛より六丁) 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺の山門と鐘堂が写る門前の風景。表門の左右には、塀が建設されている。鐘堂左奥の建物は庫裡。

熊谷寺庫裡(熊谷寺発行) 大正7年~昭和8年発行

山門を入って東側に位置していた木造平屋瓦葺きの庫裡。

熊谷寺 直実公墓 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺本堂と直実の廟入り口が写されている。

「熊谷の土手で西行が南を向いてあれは相模か富士の方―古謡―」「浄土にも剛の者とや沙汰すらん西に向ひてうしろ見せねばー蓮生法師―」と記されている。

埼玉縣熊谷寺本堂内部 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺本堂の内部。北東の回畳より見た内陣の一部と本堂入口が写されている。木柵で囲まれた内陣には、経卓、礼盤、磬台等が置かれ、上から天蓋が下がる。窓際の木台の上には、梵鐘が置かれている。下野国の天明鋳物師によって鋳造され、元和九年(1623)四月の紀年名が彫られている。

熊谷息女千代鶴媛守本尊子育地蔵堂(熊谷寺発行) 大正7年~昭和8年発行

熊谷寺境内南西に位置する。千代鶴姫の守り本尊とされる地蔵尊を安置した地蔵堂。

熊谷寺公園ノ一部(熊谷市熊谷寺発行) 昭和8年~昭和22年発行

熊谷寺境内に所在した庭園の一部。石組みで護岸された池に雪見灯籠が配されている。

蓮生山熊谷寺境内(熊谷寺発行)

本堂前西側の木立の中に、和服姿の母子が写る。木立の中には石碑が数基建てられている。