伝承・昔話

1.大熊退治

今から900年前の康和二年(1100)、熊谷地方は恐怖のどん底におちいっていました。小山ほどもあろうかという大きな熊が荒らし回っていたからです。
その熊は大きいばかりではなく、悪賢く、落とし穴などの人間が作ったわなには絶対にかかりませんでした。ですからひとたび大熊が出た時には、人々はなすすべもなく、ただ大熊の去るのを待って、かたく閉じられた家の中でふるえているだけでした。
領主の熊谷直孝もあらゆる手を打ち、神仏にもすがってみましたがいずれも効果がなく、こうなっては京にいる八幡太郎義家の力を借りなければなるまい、と思い始めていたのです。そんな直孝のもとへ勇ましい一人の若者が現れました。若者は二本の鉄の矢と、十本の大きな槍を作って欲しいと言うのです。それで何をするのかと直孝が聞くと、あの大熊を退治するのだと言います。直孝は信じられぬ気もしましたが、とにかくわらをもつかむ思いで矢と槍を作って若者に与えたのです。
次に大熊が出た時のことです。若者は一人で外に出ていきました。大熊は若者を見ると、猛然と迫ってきたのです。若者はひるむどころか十分に大熊をひきつけると、続けざまに二本の矢を放ったのです。
矢はあやまたず、大熊の両目に命中しました。これにはさすがの大熊もいっしゅん動きを止めました。そのすきをねらって若者は十本の槍を次から次へと大熊の心臓目がけて突き刺したのです。
こうして大熊は退治されました。直孝は大いに喜び、子供がいなかったのでその若者を養子にしました。
この若者こそが、熊谷次郎直実の父、直貞だったのです。熊の首を埋めたとされる場所は、現在「熊野社跡碑」が建っています。 参考『熊谷市史』(熊谷市:昭和59年)、『熊谷直実』(熊谷市文化連合:昭和44年)

【用語解説】
  • 恐怖…恐ろしく感じること。また、その感じ。
  • どん底…最悪の状態。一番下の底。
  • おちいる…よくない状態にはまりこむ。
  • わな…いろいろな装置により、おびきよせて捕らえる道具の総称。
  • なすすべもない…ある行為をするのにすべき方法がないこと。どうにもしようがないこと。
  • 領主…領地の主。一定の土地・人民を支配する人。
  • 熊谷直孝…永長元年(1096)武州目代として私市党の旗頭となったと伝わる人物。
  • 八幡太郎義家…源義家(1039~1106)。
  • 猛然…いきおいが激しいようす。
  • ひるむ…恐れてたじたじとなる。身がすくむ。おじける。
  • あやまたず…まちがいなく。
  • 養子…親子の血のつながりのない者の間に子となった者。
大熊退治
『熊谷蓮生一代記』巻之一「直実猛熊を仕止る図」
熊谷市立熊谷図書館蔵

2.権田栗毛

 その昔、榛名山の麓にある、上野国権田村(現在の群馬県高崎市倉渕)は名馬の産地として有名でした。
 熊谷次郎直実もそのうわさを聞きつけて、良い馬を求めて家臣を権田村に派遣しました。何といっても戦で手柄を立てるためにも、良い馬は欠かせません。
家臣は村中をめぐって、大きくてたくましく、毛並みも見事な栗毛の馬を見つけて、手に入れてきたのです。直実は一目見てこの馬をたいそう気に入り、『権田栗毛』と名づけて片時も離しませんでした。
その後、直実は戦のたびに権田栗毛にまたがって戦場を駆けめぐり、たくさんの手柄を立てたのです。そして、一ノ谷の戦いでは、平敦盛を討ち取るという大変な手柄をたてました。しかし、いいことばかりではありませんでした。この戦いで権田栗毛は深い傷をおってしまったのです。死に至るほどの傷ではなかったものの、もう戦には出られません。直実は優しく手当てをし、傷口を自分の母衣でまいた後、たてがみをさすりながら「ながい間よく戦ってくれた。このことは決して忘れない。余生は故郷で達者にくらせよ。」と言い、故郷の村に返したのです。
権田栗毛が帰ってみると、「名馬を出すと三代で家が絶える」ということわざの通り、生まれ育った家はもうありませんでした。権田栗毛はなげきかなしみ、屋敷跡を激しくいななきながら三回もまわりました。その時、傷口に巻いていた母衣が落ち、中から一寸八分の金の観音像が出てきたそうです。
それから権田栗毛は主人の直実のいる熊谷を目指したのですが、心労と疲れのため傷はますます悪化し、故郷の村からいくらも行かないところで倒れ、力尽きてしまいました。 
しかし村人たちは権田栗毛の事を知っており、そのなきがらを手厚く葬り、そこに馬頭観音堂をたてて冥福を祈ったということです。
今でも倉渕は権田の岩屋観音堂では、毎年五月五日にのぼり旗を立てておまつりをしています。 参考『上毛新聞』(平成12年8月4日号)

【用語解説】
  • 派遣…人に命じて他の土地へ出向かせること。
  • 栗毛の馬…体はこげ茶色。たてがみと尾は赤みのある茶色の毛を持つ馬。
  • 一ノ谷の戦い…寿永三年(1184)、源氏と平氏が現在の神戸市須磨区の辺りで戦った。
  • 平敦盛…平氏軍の武将(1169~1184)。平清盛の弟、平経盛の子。横笛の盟主として知られ、戦いの合間に笛を吹いていた。一ノ谷の戦いで熊谷次郎直実に討たれる。
  • ほろ…鎧の上に付けた袋の形をした布で、敵の矢を不正がもの。
  • 余生…残りの人生。老後の生涯。
  • 達者…体が丈夫であること。元気なこと。
  • いななく…馬が声高く鳴くこと。
  • 一寸八分…およそ五センチ4ミリメートル
  • 観音像…観世音をかたどったもの。
  • 心労…心の疲れ。心配事。
  • なきがら…死体。遺体。
  • 葬る…死体や遺骨などを墓に納めること。埋葬。
  • 馬頭観音…馬の頭をもった(または馬の頭を乗せた)、怒りの表情をしている観音。
  • 冥福…死後の幸福。
権田栗毛

3.権太くり毛

熊谷次郎直実の家来に権太という者がおりました。
権太は一日中馬の世話をしていてもあきないほどの馬好きで、それだからかも知れませんが、馬を育てることもたいへん上手でしたので、直実の馬の世話を一手に引き受けていました。
ある日のこと、馬屋に来た直実は、懸命に働いている権太にねぎらいの言葉をかけた後で、ぽつりと独り言のようにつぶやきました。
「もっと良い馬を手に入れたいのだが…」
それは坂東武者にとって切実な願いでありました。日ごろからそのことをよく知っている権太は、その日思い切って考えていることを口にしてみたのです。
「お館さま、やっぱり馬の産地はみちのくでございます。もし、お許しが出れば、みちのくまで下って、きっと良い馬を手に入れてまいります。」
「そうか、それでは頼むことにするか。」
直実の許しを得た権太は、喜び勇んで旅立ちました。 みちのくでは一戸(今の岩手県)あたりを中心に、名馬を求めてかけずり回りました。
そしてついにすばらしい名馬を求めることができたのです。
そのくり毛の立派な馬は、一目見て直実も気に入りました。そして権太が念入りに世話をするものですから、ますます立派になり、坂東でも指折りの名馬と言われ、『権太くり毛』と呼ばれるようになりました。
直実はその権太くり毛にまたがり、戦場をかけ回り、数々の手柄を立てました。
ところが、あの一ノ谷の戦いの最中に権太くり毛が大きな傷を負ってしまったのです。直実はじっくり手当をしてやりたかったのですが、戦いの最中なのでそんな余裕はありません。かんたんな手当をしたあと、
「悪いがだれもついて帰ってやるわけにはいかない。自分だけで帰れ。熊谷に帰れば権太がいる。」
そう言って権太くり毛を東に向かって放したのです。
権太くり毛は、権太に介抱されることを夢見ながら懸命に旅をしました。
しかし、館を目前とした三本村(江南)で力つきてしまいました。
あわれに思った村人たちは手厚く葬り、「駒形明神社」というほこらを建てました。
しかし、そのほこらがどこにあるか、今ではもうわからないそうです。 参考『埼玉の伝説とむかし話」(光文書院:昭和57年)

【用語解説】
  • くり毛(栗毛)の馬 …体はこげ茶色、たてがみと尾は赤みのある茶色の毛をもつ馬。
  • ねぎらいの言葉…ほねおりを感謝することば。「ごくろうさま」のことば。
  • つぶやき…ぶつぶつと小声で言うこと。
  • 坂東武者…坂東とは関東地方のこと。武者は武士。
  • 切実…心からそう思っているようす。痛切に感じているようす。重大な事でいいかげんにはできないようす。
  • お館さま…召使いの者が主人をうやまって言う呼ぴ方。
  • みちのく…現在の東北地方。
  • 下る…都から地方へ行く。下向する。
  • 喜び勇んで…喜んで心が勇みたつ。うれしくて勢いこむ。
  • かけずり回り…あちらこちら走りまわる。奔走する。
  • 一の谷の戦い…寿永三年(―-八四)、源氏と平氏が現在の神戸市須磨区のあたりで戦った。
  • 介抱…けが人や病人の世話をすること。看病。
  • 葬る…死体や遺骨などを墓に納めること。埋葬。
  • ほこら…神を祀る小さなやしろ。
  • 三本村は旧江南町で、現在は熊谷市。
権太くり毛

4.月の輪殿のこと

法然上人に入門した蓮生(熊谷次郎直実)は、人も驚くほどの仏道精進の日々を送っていました。
ある日のことです。法然は当時太政大臣だった九条兼実に招かれ、館である月の輪殿に出かけました。
蓮生も上人のお供としてついて行ったのですが、身分が低いため上に上げてもらえませんでした。沓脱ぎの所で待っている蓮生の耳に師のありがたい法話がかすかに聞こえてきました。
しかしかなり離れているため、どんなに耳をそば立てても、途切れ途切れにしか聞こえてきません。
どうしても法話が聞きたい蓮生はつい大きな声を出してしまいました。
「ああ、穣土ほど口惜しく腹立たしいものはない。極楽にはこんな差別もあるまいに。師の上人のお談義も心ゆくままにうかがうこともできない。」
大きな声だけに殿内に響き渡りました。それを聞いて兼実は法然に聞きました。
「あれは何者であるか?」
「供に連れて参った法師で、つい先ごろ武蔵の国から出てきた者でございます。」
と答えて一通り蓮生の人となりを説明したのです。
「おもしろそうな者である。かまわないからこの座に召し出されよ。」
と言ったので、蓮生は特別のはからいで殿中に入ることを許され、師のありがたい法話を聞くことが出来たのです。 参考『熊谷直実』(熊谷市文化連合:昭和44年)

【用語解説】
  • 月の輪殿…かつて京都東山の月の輪に山荘があったので「月の輪殿」という。
  • 仏道精進…ひたすら仏の説いた道の修行に励むこと。
  • 太政大臣…律令制で太政官(八省諸司および諸国を総管し、国政を総括する最高機関の最高位にある官。
  • 九条兼実(1149~1207)…鎌倉時代初めの公家(貴族)。源頼朝と手を結び摂政・関白になる。「月の輪殿」から月の輪関白と呼ばれた。
  • 館…貴人や豪族の宿所または邸宅。
  • 沓脱ぎ…玄関や縁側の上がり口などの、はきものをぬぐ石の台がある所。
  • 法話…仏の教えをわかりやすく説いた話。
  • 耳をそば立てる…注意して聞きとろうと構える。耳を立てる。
  • 穢土…天上の極楽に対し、地上のこの世のこと。
  • ロ惜しい…残念だ。くやしい。
  • 極楽…極楽浄土(阿弥陀仏の居所である浄土)の略。
  • 談義…説き聞かせること。またその話。説法。話合い。
  • 武蔵の国…旧国名。大部分は今の東京都・埼玉県、一部は神奈川県に属する。武州。
  • 人となり…持って生まれたもの。もちまえ。天性。
  • 召し出す…目下の者を呼びだす。
  • はからい…取りあつかい。はからう(適当に処置する)こと。
  • 殿中…御殿の中。特に、将軍のいる所。
月の輪殿
『熊谷蓮生法師一代記』巻之五「蓮生月輪殿殿下の昇殿を許さるる図」
熊谷市立熊谷図書館蔵

5.逆さ馬

熊谷次郎直実が出家して蓮生房となり、法然上人の弟子となってから数年が過ぎました。
充実した日々を送ってはいるのですが、蓮生房も年をとり、出家してから一度も帰っていない故郷の熊谷が恋しく思うようになりました。そしてその気持ちは時とともに大きくなり、やがて押さえきれなくなったので、師の法然上人の許しをえて故郷の熊谷に帰ることにしました。時に建久六年(1195)八月の末であったといいます。
京から馬に乗って熊谷に帰るわけですが、馬に乗りながら蓮生房は考えました。
(自分は出家し、西方浄土におわします仏様に仕える身となった。その自分が西に尻を向けていいものだろうか…。)
いいはずはありません。しかしこのまま熊谷へ向かって行くのに、ふつうに乗っていればどうしてもお尻は西に向いてしまいます。
そこで蓮生房は思いきったことをしました。身体を反転させて顔を西に向けて乗ったのです。つまり「逆さ」に馬に乗ったのです。
こんな乗り方は今まで見たことも聞いたこともありません。道行く旅人も沿道の人々も、驚くとともにその格好がおかしいので、だれもが笑い出しました。
それを見て馬を引いている馬子が、恥ずかしいからやめてくれと何度も言いましたが、蓮生房は頑として聞き入れなかったそうです。
こうして逆さに馬に乗ったまま鎌倉に寄り、将軍頼朝と会って話をしたあと、故郷の熊谷へ帰っていきました。
逆さ馬の蓮生房の格好がおかしいと笑った人々は、そのような乗り方がだれにも出来るものではない、ということを知ります。熊谷次郎直実として愛馬権太栗毛とともに源平の戦場をかけめぐり、日本一の剛の者と謳われた彼だからこそ出来たことなのです。
そしてそのまま「逆さ馬」を熊谷まで続けていったことに、蓮生房の信仰心の深さにあらためて驚かされたのです。 参考『熊谷市郷土文化会誌』二十一号(熊谷市郷土文化会:昭和45年)

【用語解説】
  • 出家…ふつうの人が仏門に入って僧となること。
  • 法然上人(1133~1212)…名は源空。お経が読めなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏をとなえれば救われるという浄土宗を開いた。
  • 西方浄土…西にある仏様の住むといわれる極楽世界。
  • 将軍頼朝…源頼朝(1147~1199)のこと。建久三年(1192)、征夷大将軍となり、鎌倉幕府を開いて、武士による政治の土台を作った人。
  • 愛馬権田栗毛…熊谷次郎直実が一の谷の戦いなどに乗っていた馬。市内に馬の供養塔である円光塚がある。
  • 源平の戦場…源氏と平氏が戦った場所。
逆さ馬
『熊谷蓮生一代記』巻之六「蓮生逆馬に乗り故郷へ向図」
熊谷市立熊谷図書館蔵
『木曽路名所図会』巻之四「東行逆馬の絵」 熊谷市立熊谷図書館蔵

6.蓮生・山賊を救う

出家し蓮生法師となった熊谷次郎直実が、京から故郷の熊谷に帰る時のことです。
近江路に入った時のこと。一人歩いていた蓮生法師の前にとつぜん二人の山賊が現れ、
「命が惜しかったら有り金全部こちらに渡せ。」
とおどしました。
でもそこはかつて日本一の剛の者といわれた蓮生法師です。少しも動じないばかりか、カラカラと笑って山賊たちにたずねたのです。
「それはお安い御用だ。金はおろか衣服もさし上げるが、その前におまえたちに一つ聞きたいことがある。」
山賊たちはあまりにも落ちついている蓮生法師の態度に、恐ろしささえ覚え始めたのですが、ここでやめるわけにもいかず、ただひたすら蓮生法師の次の言葉を待っていたのでした。
「いったいおまえたちは金が欲しいから取るのか、それとも他に身を立てる道がないから山賊になったのか。いずれじゃ?」
と聞くと山賊たちは、
「実は食えないので背に腹は代えられず、やむを得ず山賊になっている。」
と言うので蓮生法師は、
「それならば今からこんなことはやめてわしについて来い。志を立ててがんばれば、やがては一寺の主となることもできよう。」
と言い、持っていたお金を全部さし出すと、二人はその金に触れもしないで平伏し、
「ぜひそうして下さい。今からあなた様の弟子になり、これまでの罪滅ぼしがしたい。」
と真心から言うのでした。
それを聞いて蓮生法師も大いに喜んで、剃刀を出して二人の頭の毛を剃り、一人に善心坊、もう一人に法心坊と名づけ、共に弟子にして関東に連れていった、ということです。
参考『熊谷市郷土文化会誌』(熊谷郷土文化会:昭和45年)

【用語解説】
  • 出家…ふつうの人が仏門に入って僧となること。
  • 近江路…近江国(現在の滋賀県)の道。
  • 山賊…山中で生活している盗賊。
  • 身を立てる…生活する手段とする。社会で成功する。
  • 背に腹はかえられぬ…さしせまった大事なことのためには、他を気にかけるゆとりがないこと。
  • 志…決意。目標。
  • 一寺の主… ―つの寺をあずかる主人(住職)。
  • 平伏…両手をつき、頭を地につけて礼拝すること。ひれふすこと。
  • 弟子…師に従って教えを受ける人。教え子。
  • 真心…いつわりのない真実の心。
  • 罪滅ぼし…よいことを行なって過去の罪を滅ぼすこと。
  • 剃刀…頭の毛・ひげなどを剃るのに用いるするどい刃。
蓮生山賊を救う

7.十念質入

熊谷次郎直実の晩年、出家してからのことは実はよくわかっていないのです。ただ建久六年(1195)のことは比較的よくわかっています。
まずこの年の初めは、法然上人の弟子となっている関係から京都にいました。そして熊谷次郎直実は晩年、出家して蓮生と名のり法然上人の弟子になりました。建久六年の初め京都にいた直実は、郷の熊谷に帰ろうと思い、東海道を東へ向かったのです。
しかし東へ向かうとどうしてもお尻が西に向きます。阿弥陀様のいらっしゃる西方にお尻を向けるのは申しわけないと、馬に逆さに乗って東海道を下って行きました。
ところが途中の山の中で山賊と出会ってしまったのです。直実、いや今は蓮生法師ですが、元はといえば日本一の剛の者、山賊なんかにはびくともしません。かえって山賊の方が、大人数で取り囲んでも顔色ひとつ変えない蓮生に恐れおののき、すごすごと引き始めたのです。
せっかく襲っておいて手ぶらではかわいそうに思い、蓮生は持っていた路銀のほとんどを山賊に与えてしまいました。
このため藤枝に来た時お金がなくなってしまいました。ある家に一夜の宿を頼みますと、「お金がないなら何か質になるものを。」と言われました。しかし金目のものは何も持っていません。
そこで蓮生は大切な念仏をと、念仏を唱え始めました。すると驚いたことに、一回の念仏が一つの小さな化仏となって主人の口へ入っていったのです。蓮生は十回念仏を唱えましたから、十個の化仏が質になりました。
これには主人もおどろき、泊めたばかりか路銀も貸し与えたので、蓮生は無事に熊谷まで帰ることができたのです。 参考『新編熊谷風土記稿』などより

【用語解説】
  • 十念…「なむあみだぶつ」の念仏を十回となえること。
  • 晩年…一生の終わりの時期。年老いたとき。
  • 出家…ふつうの人が仏門に入って僧となること。
  • 法然上人(1133~1212)…名は源空。お経が読めなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏をとなえれば救われるという浄土宗を開いた。
  • 東海道…京都から江戸までの、海岸沿いの街道。江戸時代に整備された五街道の一つ。
  • 阿弥陀様…西方極楽にいるという仏様。
  • 西方…西の方。西方浄土の略。
  • 山賊…山中で生活している盗賊。
  • 恐れおののき…相手の力におされて、心が弱くなる。かなわないと思い、こわがる。
  • 路銀…旅行のお金。
  • 藤枝…静岡県藤枝市。東海道沿いの街。熊谷山蓮生寺がある。
  • 金目…値段の高いこと。
  • 念仏…心に仏の姿や仏の教えを思い、口に仏名を唱えること。
  • 化仏…仏様の姿。
十念質入
『熊谷蓮生一代記』巻之六「蓮生藤枝の宿にて念仏奇随の図」
熊谷市立熊谷図書館蔵

8.玉津留姫

熊谷次郎直実には二人の姫があり、これはそのうちの一人、玉津留姫のお話です。
ご存じのように父である直実は、一の谷の戦いで平敦盛を討ち取った後、世の無常を感じて武士を捨て、法然上人の弟子となって館を去り、兄の直家も源頼朝に仕えているため館にはめったに帰ってきません。
玉津留姫は母とともに、館でひっそりと暮らしていましたが、そのうちに、ふとしたことから母が病にかかり、姫の懸命な看病も空しく、帰らぬ人になってしまいました。
悲しさと、葬儀が終わった後の、いよいよひとりぼっちになってしまったという寂しさから、姫は毎日泣いてばかりいました。
しかしある日、こんなことではいけない、善光寺にお参りして母の霊を慰めようと思いたち、侍女を一人連れて信州へ向かいました。
道中の安全のため、途中立ち寄った寺の住職の勧めにも従い、髪を剃り、黒い衣をまとった尼の姿になって旅を続けました。
ところが疲労と暑さのため、姫は善光寺を目前にして、病に倒れてしまったのです。侍女が必死になって看病しましたが、姫の病は重くなるばかりでした。
そこへなんという偶然か、念仏修行をしていた父直実が通りかかったのです。
しかし姫の病は、父の顔もわからぬほど重くなっていたのです。
それからしばらくして、姫は父の胸の中で静かに息を引きとった、ということです。
参考『熊谷市史』(熊谷市:昭和59年)

【用語解説】
  • 一の谷の戦い…寿永三年(1184)、源氏と平氏が現在の神戸市須磨区のあたりで戦った。
  • 平敦盛(1169~1184)…平氏軍の武将。平清盛の弟、平経盛の子。横笛の名手として知られ、戦いの合間に笛を吹いていた。一の谷の戦いで熊谷次郎直実に討たれる。
  • 無常…人生のはかないこと。
  • めったに…ほとんど。まれにしか。
  • ひっそりと…ひそかに事をなすさま。
  • ふとしたことから…思いがけないこと。ちょっとしたこと。
  • 空しく…かいがなく。むだである。
  • 帰らぬ人…死んだ人。
  • 慰める…心をしずめ満足させる。なだめる。
  • 法然上人(1133~1212)…名は源空。お経が読めなくても「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏をとなえれば救われるという浄土宗を開いた。
玉津留姫

9.袖引稲荷

熊谷次郎直実の二人の娘、玉都留姫と千代鶴姫にはいろいろな話がありますが、こんな話も伝わっています。
幼いころ戦乱があり、玉都留姫は妹の千代鶴姫と別れ別れになってしまいました。
年とともに会いたい気持ちが募っていった玉都留姫は、ある年、信仰している恩徳稲荷に願かけしたのです。
願をかけてからというもの、くる日もくる日も一心不乱に祈り続けました。そして二十一日目の満願の日、姫の夢の中に白きつねに乗った神様が現れ、
「私はお前の信仰する恩徳稲荷である。これから京に向かって行けば願いはかなうであろう。」
とのお告げがあったのです。
目覚めて姫は喜び、さっそく侍女の浩月をともない京へ旅立ちました。
その途中、東海道は焼津にほど近いある川を渡る時のことです。渡し舟の中で一人の美しい姫と不思議なことに袖が結びあってしまったのです。
それがきっかけでその姫と語りあってみたところ、なんとその姫こそが、あれほど探していた妹の千代鶴姫だったのです。
二人はあまりのことに驚くとともに抱きあって喜びました。そして二人会わせてくれた稲荷に感謝し、社を造ってお参りを欠かしませんでした。
人々はこの話を聞き、だれが言うともなくこの社のことを「袖引稲荷」と呼ぶようになりました。
そしてこの「袖引稲荷」は、今も玉都留姫が建立した報恩寺の中にあり、人々の信仰を集めています。
参考『熊谷市郷土文化会誌』三九号(熊谷市郷土文化会:昭和59年)

【用語解説】
  • 恩徳稲荷…仏により世の人を救うという仏の三徳の一つを祀ったもの。
  • 願かけ…神仏に願いごとをすること。
  • 一心不乱…一つのことに心を注いで他のことのために乱れないこと。
  • 満願の日…願いごとをして祈る最後の日。
  • 侍女…召使いの女。
  • 東海道…京都から江戸までの、海岸沿いの街道。江戸時代に整備された五街道の一つ。
  • 焼津…現在の静岡県焼津市。
  • 報恩寺…昔は現在の熊谷郵便局一帯がその境内だったが、昭和三八年に現在の熊谷市円光の地に移った。
袖引稲荷

10.奴稲荷

一の谷戦いといえば、熊谷次郎直実が平敦盛を討ったことであまりにも有名ですが、これはその直前のことです。
直実はいつものように源氏の兵の先頭に立って大活躍をしていました。
ところがあまりにも前に行き過ぎて、ふと気がつくと敵に囲まれていました。前からはもちろん左右から、そして後からも敵は襲ってきました。二、三人ならばともかく、これではいくら日本一の剛の者と謳われた直実でもたまりません。
もはやこれまでか、と思われた時、
「我こそは熊谷弥三左衛門なり!」
という大音声が聞こえたかと思うと、どこからともなく一人の武士が現れ、たちまち敵を蹴散らしてしまったのです。
直実は不思議に思い、
「そなたはだれであるか?」
とたずねると、
「わしは汝がつねに信仰する稲荷である。汝の危難を救うために、このように武士となって現れたのである。」
と答えると姿を消してしまいました。
それ以来、直実はいっそう信仰の念を厚くし、居城の守り神としてお祀りし、社名を熊谷弥三左衛門稲荷としたということです。
(この稲荷は、江戸時代末期には「奴稲荷」と呼ばれ、盛んな信仰を得ていました。)
この「奴稲荷」は、今でも熊谷寺のわきに祀られ、信仰されています。
参考『熊谷市史』(熊谷市:昭和59年)『木曽路名所図会』『新編熊谷風土記稿』など

【用語解説】
  • 一の谷の戦い…寿永三年(1184)、源氏と平氏が現在の神戸市須磨区あたりで戦った。
  • 平敦盛…平氏軍の武将。(1169~1184)。平清盛の弟である平経盛の子。横笛の名手として知られ、戦いの合い間に笛を吹いていた。一の谷の戦いで熊谷次郎直実に討たれる。
  • 剛の者…すぐれて強い人。
  • 謳われる…世間の評判となる。もてはやされる。
  • もはや…今となっては。もう。すでに。
  • 大音声…遠くまでひびく大きな声。
  • 蹴散らす…追い散らすこと。「けちらかす」ともいう。
  • そなた…あなた。
  • 汝…おまえ。
  • 稲荷…五穀(米や麦など)をつかさどる農業の神様(倉稲魂)。またその神社のこと。おいなりさん。
  • 危難…命にかかわるような災難。
  • 信仰の念…信じうやまって、深く思うこと。
  • 居城…領主がふだん住んでいる城。
  • 社名…神社・結社または会社の名。ここでは神社の名前のこと。
奴稲荷
子育奴稲荷圖:熊谷市立熊谷図書館蔵

11.蓮生の大往生

京都西山、師の法然上人ゆかりの粟生の地で草庵を結び、念仏三昧の日々を送っていた蓮生(熊谷次郎直実の法名)も年を取り、体の変調を覚えるようになりました。
往生が近づいているということは、蓮生のような者にとってはむしろ喜びでもありました。ただ望郷の念があり、それが年とともに強くなっていたので、最後はふるさとの熊谷で、と思うようになっていたのです。
そこで今まで住んでいた草庵は同門の友にゆずり、師の法然上人にもあいさつに行くと、法然上人は三尊と無数の化仏を自ら描いて与えたといいます。
熊谷に帰った連生は建永元年(1206)八月、村岡の市にこんな高札を立てさせました。
「蓮生は明年二月八日往生します。もし疑いのある人は見に来てください。」
という世にもめずらしい往生の予告ですから、その日になると近くの人々はもちろん、かなり遠くからも見に来る人々が集まってきました。
さてその日、蓮生は沐浴してから一心に念仏を唱え始めました。回りでは数えきれないほどの人々がかたずを呑んで見守っています。
ところが蓮生はいきなり念仏をやめてしまい、回りの人々にこう言いました。「今日の往生は延期となりました。来る九月四日には必ず本意を遂げますから、その日にもう一度お出かけください。」
回りの人々はあっけにとられ、あざけり始めましたが、蓮生は「阿弥陀如来のお告げがあったから」と、一向に気にしませんでした。そして九月四日。家族や人々が見守る中、念仏が途切れたかと思うと口からは光が吐かれ、紫雲がたなびき、かぐわしい香りがただよう中、蓮生は念願どおり上品上生の往生を遂げたのです。 参考『熊谷直実』(熊谷市文化連合:昭和44年)

【用語解説】
  • 往生…この世を去って(死んで)他の世界に生まれ変わること。特に、極楽浄土に生まれること。
  • 粟生…京都府長岡京市粟生。蓮生(熊谷直実)が建久九年(1198)、法然ゆかりのこの地に念仏三昧院(光明寺)を開いた。法然の火葬地として知られる。蓮生の遺骨もこの寺に埋葬されたと伝えられる。
  • 草庵…雨つゆをしのぐだけのかんたんな小屋。
  • 結び…形をなす。また結実する。
  • 念仏三昧の日々…なむあみだぶつの念仏を唱えるだけの生涯を毎日送ること。
  • 望郷の念…故郷をなつかしく思う気持ち。
  • 高札…人目をひく所に高く掲げた板札。立て札。
  • 沐浴…身を清めるために水を浴びること。
  • たなびく…雲・霞または煙が薄く横に長く引く。
蓮生の大往生
『熊谷蓮生一代記』巻之七「蓮生市中に大往生の高札を建る図」
熊谷市立熊谷図書館蔵

12.箱田念仏堂

 今も市民に親しまれている「箱田念仏堂」(正式には蓮生寺。熊谷寺の副院となっている)には、こんな話が伝わっています。
 江戸時代の寛文年間(1661年頃)、丹波国(今の京都府の北部)生まれの善念和尚というお坊さんがおりました。
 善念は、諸国を遊歴していたのですが、故郷に近い丹波亀山の宝来寺という廃寺に泊まった時のことです。
 善念の夢の中に、観世音菩薩が現れて、「私は熊谷次郎直実の娘、玉都留姫、千代鶴姫の信仰する仏であるが、この寺にある観音菩薩、勢至菩薩を二人の生地である武蔵国箱田村に持っていってもらいたい。なお二体の仏像とも八尺を超える大きさなので、持って行くのは大変だろうから、首だけ抜いて持って行くように。」
というお告げがあったのです。
 そこで善念は、お告げに従い、仏像の首を持って箱田にやってきました。
 そこには、熊谷寺中興の祖といわれる幡随意上人が熊谷寺を再建したさい、それまであった熊谷寺の念仏庵が移されてあったのです。
 善念は、ひとまずそこに仏像の頭を納め、自分もそこに落ち着きました。
 その後、元禄年間に忍の殿様の帰依を受け、仏像の胴体部分と本堂を寄進され、なお扶持も与えられたといいます。
 このように、箱田念仏堂をほとんど一人で作り上げたといってもいい善念和尚は、宝永2年(1705)80歳で入寂しました。
 今でも念仏堂は、修復され近所の人々の信仰を集めています。 参考:『熊谷市郷土文化会誌』三十九号「念仏堂周辺」井上善治郎

【用語解説】
  • 遊歴…いろいろな土地をめぐり歩くこと。旅をすること。
  • 廃寺…和尚さんのいない寺。荒れ果てた寺。
  • 観世音(観音)菩薩…いっぱんの人々をすくい助けることを本願とする仏様で、勢至菩薩と共に阿弥陀仏のわきに立ってお守りしている。
  • 八尺…およそ2m40cm。
  • 中興の祖…おとろえていたものをまた盛んにした人
  • 幡随意上人…浄土宗の僧侶(1542-1615)。熊谷寺の念仏庵を中興し、浄土宗京都知恩院の末寺とした。
  • 忍の殿様…今の行田市にあった忍城の殿様。
  • 帰依…仏をたより、信仰すること。
  • 寄進…寺や神社などに、お金や物、または土地建物などを寄付すること。
  • 扶持…俸給、特に武士の給料(当時は米が与えられた)のこと。生活を助けること。
  • 入寂…お坊さんなどが死ぬこと。
箱田念仏堂