蓮生開基の寺

1.熊谷山仏導寺・玉津留姫塚(長野県長野市若里3-17-20)

 浄土宗寺院。文治4年(1188)蓮生開創とされている。文治4年はまだ直実は出家しておらず、熊谷寺住職漆間和美氏は著書『熊谷法力坊蓮生法師』の中で、「文治4年を正治4年(1202)の誤伝とすれば蓮生の行動の中に無理なく取り入れることができる」と記している。延宝2年(1674)現在地に移転。
 由緒縁起:『佛導寺縁起』によると「我等佛導寺は、82代後鳥羽上皇の御于即ち文治4年(1188)の秋、善光寺如来の感顕に因り、武蔵国の御家人熊谷次郎直実入道その息女玉鶴姫のために建立し連綿今日におよぶ」と記されている。
関連遺物:蓮生作と伝えられる玉津留姫像、網曳阿弥陀如来像、如意輪観世音菩薩像など

〈姫塚の由来〉
 直実が京に上がり、法然上人のもとで修道に委ねていた頃、内室は、熊谷の館で娘玉津留姫を育てていたが、遂に黄泉の客となってしまう。悲しんだ姫は、侍女を連れて母の冥福を祈るべく、善光寺へ旅立つ。
 深谷の国済寺に立ち寄り、そこで旅中如何なる変が有るかわからない。剃髪染衣の身となりて所志を果たされよと言われ、玉津留姫は妙蓮、侍女は哠月と法号を付けてもらう。
 川中島の綱島に着いた時、玉津留姫は長旅の疲労で動けなくなってしまう。侍女は、この川を渡れば如来のいます浄土なりと、病の玉津留姫を助け川岸に至るが、前夜の大雨で川は増水し、渡ることはできない。侍女は一心不乱に念仏を唱えると、気高き翁が現れ、綱を曳いて舟を遣って進ぜよう。この舟に乗り給えと二人を招いたので、舟に乗り川を渡ることができた。余りの有り難さに侍女は、如何なる御方ぞと尋ねると、我こそは御身等が信ずる善光寺如来ぞと答え、その姿は消えた。
 その頃蓮生は、善光寺にて念仏専修に励んでいたが、ある朝、南方に紫雲がたなびくのをのを見て、その方角へ向かうと、二人の尼僧と出会う。一人はもはや臨終の有様なので、何国の如何なる御方かと尋ねると、侍女は次第を物語る。蓮生は、驚き言葉も出ずにいたが、今は恩愛の絆を絶ちし出家の身と何事も無いように装うが、玉津留姫は、御僧はもしや父上ではありませんか、父上ならば、息女玉津留と一言給はれと申した。蓮生は、悲嘆の涙が止めどなく出て、ただ念仏を口ずさみ、吾は左様の者に侍らず、法然上人につき浄土念仏の一行を専修し、今は善光寺如来に参籠し、今日紫雲の奇瑞を見たので来たと答える。
 熊谷なる御坊は師上人のもとにありし時同行にて、今は吾僧と同じく回国修行の由、御身の事申し伝へようとさとした。蓮生は、玉津留姫に向かい、御身の往生は近い、同行として十念の念仏を授けようと、南無阿弥陀仏の十声唱え終わると共に、玉津留姫は大往生を遂げた。蓮生と侍女は、懇ろに葬り、墓の印にと一本の樹を植えた。これが姫塚である。
 それより東方数町のところに庵を結び、玉津留姫の菩提のため開基し寺となし、善光寺如来化現し舟の網を曳いて姫を導いたことにより熊谷山仏導寺と号し、法名を仏導院殿一乗妙蓮大禅尼と授けた。蓮生は、網を曳く如来の像と姫の像を自ら刻み、法然上人に開眼を請い本尊として泰安した。
参考:『仏導寺縁起』、『熊谷史話』「信州善光寺七塚の一 姫塚 玉津留姫終焉の地」1935:林有彰:国書刊行会


姫塚

網曳阿弥陀如来

玉鶴姫像
如意輪観世音菩薩像
佛堂寺

2.蓮池院熊谷堂(京都府京都市左京区黒谷町121)

 浄土宗寺院。建久3年(1192)蓮生53歳開創。
由緒縁起:直実が法然上人のもとで、建久3年(1192)に法力坊蓮生と名を改め出家した際、建久4年(1193)に源頼朝の政所政子が、蓮生の子小次郎を促して父のために草庵を結ばせ、洛東蓮生庵と称した。寛永5年(1623)は春日局が熊谷兜池に蓮生にちなみ蓮を植え、蓮池庵熊谷堂と改めた。金戒光明寺の塔頭の一堂で、境内を接している。
関連遺物:蓮生自作と伝えられる蓮生立像、敦盛の遺品の母衣に源空上人の姿を描いた母衣絹の御影、敦盛の娘如仏尼像、直実入道蓮生一代事績、源氏白旗の名号、平敦盛像、東行逆馬図など。墓地に、直実(卒塔婆「蓮池院開基法力坊蓮生法師」)と敦盛(卒塔婆「無冠太夫平敦盛卿空顔璘荘大居士」)の五輪塔。


直実供養塔

熱盛供養塔

平敦盛像
直実入道蓮生一代事績
源氏白旗の名号
東行逆馬図
蓮池院門
蓮池院熊谷堂

3.栃社山誕生寺(岡山県久米郡久米南町里方808)

浄土宗寺院。建久5年(1194)蓮生54歳開基。法然上人二十五霊場第一番札所。法然上人誕生の聖地。本尊は円光大師。
由緒縁起:蓮生が法然上人のもとで出家した翌年の建久4年(1193)、蓮生が、師である法然の徳を慕い、法然上人が刻んだ三尺余りの座像を後ろ向きに背負い、法然の父である漆間時国の旧宅を寺院として改め建立した。この時蓮生は、「世を捨てて 世のある人を眺むれば あちもおかし こちもおかし」との歌を詠んでいる。
関連遺物:御影堂に、蓮生が背負って安置した法然上人座像、蓮生法師座像、念仏鐘。方丈庭園に「熊谷入道腰掛け石」。

〈地元エピソード〉
自分よがりに突っ走って、結局遠回りになることを地元では「横野から、誕生寺やな」と言う。これは、蓮生が法然上人の生家の場所が判らず、道に迷った時、土地の人の言うことを聞かず、横野という所まで行ってしまい、遠回りしてやっと辿り着いたということから生まれた言い回し。

誕生寺御影堂
誕生寺熊谷入道腰掛石

4.熊谷山蓮生院西福寺(富山県高岡市千木屋町4)

浄土宗寺院。建久元年(1190)~正治2年(1200)頃蓮生開基。

由緒縁起:蓮生が京から熊谷に帰る為、北陸路を通り、高岡に入ったところ、修行のため念持仏として背負っていた阿弥陀如来像が「このところ因縁の地なり」とお告げがあり、これによって庵を建て、背負っていた阿弥陀如来像を据え、所持の宝物を寄附したと伝えられている。

その後兵乱により焼失するが、中興の観誉上人が高岡地子木町に移り一宇を建立、その後正徳年間(1702頃)現在の千木屋に移り現在に至る。

関連遺物:蓮生自画像、蓮生法師坐像、鉈彫の名号(法然上人より譲り受けた六字名号を蓮生が鉈で彫り上げたと伝える版木)、直実使用の銅鑼など。

西福寺本堂

5.熊谷山蓮生寺(静岡県藤枝市本町1-3-31)

浄土真宗寺院。建久6年(1195)蓮生55歳開基。本尊は阿弥陀如来。
由緒縁起:建久6年(1195)蓮生は郷里熊谷の母を見舞いに帰る事にした。この時、①東行逆馬の話、②山賊に銭を与えた話、③十念質入れの綺譚などの話がある。
蓮生が小夜の中山で追いはぎに遭った際、馬や旅費の全てを渡してしまい、困った蓮生は、藤枝の福井左衛門尉憲順宅で旅費を借用する。翌年、質物に置いた念仏の化仏を一体譲り受けた憲順は、その縁で家財を投げうって屋敷寺に変え、熊谷山蓮生寺としたと伝わっている。
関連遺物:蓮生法師木像、蓮生筆母衣絹名号、直実所持兜中守仏(聖徳太子像)、直実戦場用長刀、腹籠名号、一ノ谷合戦図、横取替名号、東行逆馬図など。


一の谷合戦図

母衣絹名号

甲中御守仏

腹籠名号

横取替名号
蓮生法師木像

東行逆馬図
備中守添状
蓮生寺門

6.熊谷山大如院蓮生寺(兵庫県豊岡市日高町宵田10)

浄土宗寺院。本尊は、阿弥陀如来。建久6年(1195)蓮生55歳開基。
由緒縁起:『蓮生寺縁起和讃』によると、本寺は、当初池中山大如院と称していたが、寺の一帯は沼地で、沼から毎夜妖怪が現れるので、村人は怖がっていた。建久6年(1195)、丹後国久美浜の本願寺で後白河法皇の追善供養が営む際に、法然上人が招かれ、そのことを聞いた村人が法然上人の御来但、御教化をお願いしたが、都合が悪く、伴人の蓮生が代僧として訪れた。蓮生は大如院と号する庵をむすび2ヶ月余り念仏道場を開き、笈仏、手蓮華、自作木像を残して帰っていいた。それ以来、蓮生の念力により妖怪は出なくなり、村人は蓮生に帰依しその徳を慕って、蓮生を開山として大如院を改築し、熊谷山大如院蓮生寺と称したと伝わっている。
また、「蓮生寺縁起御和讃」には、由緒が歌われている。
一.開山熊谷蓮生坊 その名も丹治直実と勇武のほまれ世に高き 坂東一の豪の者
二.不思議や佛縁もよおして 無常感じ罪に泣く 法然聖の門に入り 一向専修の身となりぬ
三.くしきえにしに導かれ 宵田の里の大如院 三七日お念佛 化益あまねく垂れ給う      *四、五は略
関連遺物:蓮生自作笈仏、手蓮華、蓮生像

7.熊谷山法然寺(京都府京都市右京区嵯峨天龍寺立石町1)

浄土宗寺院。建久8年(1197)蓮生57歳開基。本尊は、法然上人木像。円光大師二十五霊場第十九番札所。京都市元法然町に所在したが、嵯峨の地に転居した。
由緒縁起:建久8年(1197)5月に蓮生が、父貞直の旧地に、法然を開山と仰ぎ、法然の御影を安置して、両親の菩提を弔うために建立したと伝えられる。
『熊谷蓮生一代記』巻の7によると、蓮生が母の一周忌を終え京都に帰ろうとするとある夜夢を見た「しかるにある夜、真影夢中に告てのたまはく、都は我有縁の地なれば、伴ひ行べしとの玉ふ。蓮生大に驚き夢見て後、即時に彼真影を守奉り、夜を日に継て花洛に登り、夫より都の内を其所彼処廻るに、或日我誕生の地ゆかしく、錦小路東洞院を過んとしけるに負奉る真影忽ち大盤石のごとくにならせ玉へば、さすがの大力剛勇の蓮生なれども一足も進むこと能はず。扨は夢中に告玉ひける有縁の地ならんと上人に伺い奉りければ、上人のたまわく、其所に道場を建て念仏三昧を行ずべしと仰によりて蓮生頓て此所に一宇を建立して、かの真影を安置し奉る」と記されている。
関連遺物:蓮生護持の法然上人像、蓮生法師木像、平敦盛像、直実の鎧で作ったといわれる釣り灯籠、蓮生法師伝、直実公肖像画、開基熊谷直実入道蓮生上人一代略画伝など。


直実公肖像画

蓮生法師木像
蓮生法師伝
法然寺本堂
開基熊谷直実入道蓮生上人一代略画伝
開基熊谷直実入道蓮生上人一代略画伝
開基熊谷直実入道蓮生上人一代略画伝

8.念仏三昧院粟生光明寺(京都府京都市長岡京市粟生西条ノ内26-1)

浄土宗寺院。建久9年(1198)蓮生58歳開基。
由緒縁起:光明寺所蔵『光明寺絵縁起』(17世紀中頃)には、「山城州乙訓郡粟生報国山光明寺は、法然上人を開山第一祖として蓮生法師が草創なり」と記されている。
建久9年(1198)蓮生は、余生は京都を離れ、静かな地で念仏三昧に過ごしたいと法然上人に相談し許しを得、粟生の里に法然上人ゆかりの地があると聞き、ここに御堂を建立し、法然上人より「念仏三昧院」の寺号を頂いたことに始まる。
蓮生は、琵琶湖堅田の浮御堂の千体仏中尊であった恵心僧都作の阿弥陀如来像を、秘計を回らし手に入れ、そこから背負って運び入れ、法然上人を懇請して入仏落慶を営んだと伝えられている。
蓮生は、この地で約9年間念仏三昧の生活を続け修行の場としし、余命が短いことを察した蓮生は、弟子の幸阿上人に託し、熊谷へと帰り、間もなく往生した。
法然上人は、比叡山の古い仏教集団から迫害を受け、入滅後16年目の安貞2年(1229)に法然上人の墓を暴き遺骸を鴨川に流そうと企て、これに対し弟子達は法然上人の遺骸を石棺から出し嵯峨へ移そうとすると、石棺から数条の光明が放たれたという。この奇瑞に因んで仁治3年(1242)四条天皇から「光明寺」の寺額を賜ったので、寺号は以降光明寺と改められた。遺骸は火葬にし、半分を遺弟に、残りを御廟に納め、火葬跡の灰と土を固め五重塔を作り奉安した。
関連遺物:円光大師層塔、蓮生木像、蓮生五輪塔、法然上人の石棺、円光大師自作御影、蓮生自筆七字名号、法然上人蓮生坊対面図、熊谷蓮生法師書簡、蓮生書、鉦吾、法然上人御火葬跡など。


法然上人蓮生坊対面図
熊谷蓮生法師書簡
蓮生書
蓮生書
蓮生書
鉦吾

蓮生自筆七字名号
光明寺山門
光明寺本堂

9.熊谷山宝樹寺(京都府京都市右京区嵯峨甲塚18)

浄土宗寺院(尼寺)。建久9年(1198)蓮生58歳開基。善光寺48願所第3番
本尊は阿弥陀如来像:蓮生が彫刻し、法然が開眼したと伝えられる。
由緒縁起:建久9年(1198)蓮生開創。光明寺とほぼ同時期に創建されたと伝えられる。創建当時は、七堂伽藍を有する大寺であったが、幾度もの火災によって、江戸時代より尼寺に変わり、現在の堂宇は、大正4年(1915)再建されたもの。
関連遺物:赤眼の蓮生像:江戸時代の作で、玉眼が赤く、まなじりを上げ、厳しい顔立ちを表現している。法衣の下の胸の筋肉表現など、武士の時代の荒々しさが残るような表現で制作されており、出家して間もない頃の蓮生法師の姿を表した坐像。

10.薬師山世尊院泉蔵寺(群馬県前橋市小屋原町868)

天台宗寺院。建仁3年(1203)蓮生63歳開基。本尊は地蔵菩薩(当初は薬師如来)。関東百八地蔵尊霊場第二十二番札所。
由緒縁起:創建は不明だが、建仁3年(1203)近村の浄財を集め、地蔵堂を改修し、請うて蓮生を開基としたと伝えられている。 本尊の地蔵菩薩は、静御前が奥州の源義経を追って向かっていたが、当地から鎌倉へ戻らざるを得なくなり、何度も後を見返ったといい、この本尊が、静御前に似ていることから「見返り地蔵」と呼ばれている。
関連遺物:蓮生が建立したと伝わる敦盛の供養塔。

泉蔵寺本堂
伝・敦盛供養塔

11.熊谷山蓮生寺(長野県長野市若穂牛島869)

浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。元久年中(1204頃)蓮生64歳開基。
由緒縁起:元久年中(1204頃)蓮生開創。蓮生が元久年中、善光寺に参詣した際、念仏を広めるため牛島に阿弥陀堂を建立し暫く在留した。その際、法然上人が蓮生の母衣に南無阿弥陀仏6字を筆記したと伝えられる。明治5年の寺の什物調査の際、「母衣御名号 厨子入」と確認されている。
関連遺物:蓮生法師木像、開山蓮生法師後向馬上の影、御位牌(表:當山開山坂東阿弥陀佛蓮生法力大師 位、裏:承元元癸卯九月四日 武州熊谷領主治郎平直實入道)、宗祖日の丸名号など。

蓮生寺
宗祖日の丸名号
蓮生法師木像
御位牌