歌舞伎

1.一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)

文楽・歌舞伎の演目。大きく熊谷次郎直実と平敦盛、岡部六弥太忠澄と平忠度の物語で構成される。浄瑠璃作者並木宗輔(1695-1751)の作で、宝暦元年(1751)人形浄瑠璃として大阪豊竹座にて初演され、翌年江戸の中村座・森田座にて歌舞伎化された。五段構成で、三段目は特に「熊谷陣屋」と通称される。

『浄瑠璃絵づくし』「一谷嫩軍記」:国立国会図書館デジタルコレクション

■初段(堀川御所の段)

 寿永3年(1184)2月、源氏に追われた平家は、安徳天皇を戴いて西国へと逃れた。一方、京の堀川御所にいる源義経は、源頼朝から平家追討の命を受け、日夜その事について評議をしていたが、そこへ平大納言時忠が訪れた。時忠は、平家を裏切り、自分の娘卿の君を義経の妻とさせ、安徳天皇のもとにあった三種の神器のうち、八咫の鏡と神璽を密かに奪い義経に差し出していた。
そこへさらに藤原俊成の娘、菊の前が訪れる。菊の前は、父俊成のもとに旅人が訪れ、俊成が編纂している『千載和歌集』に自分の和歌を入れてほしいと願い出ており、それを記した短冊を持って来たのだという。その短冊には「さざなみや しがのみやこは あれにしを むかしながらの やまざくらかな」という平忠度が詠んだ和歌が書かれており、源氏と敵対する平家の者が詠んだ歌を、勅撰和歌集に入れてもよいものか義経に伺いに来たのであった。
次に、義経の家臣岡部六弥太忠澄と、熊谷次郎直実が義経の前に出た。頼朝より再三平家追討の軍を出すよう催促を受けているので、早く出立するようにと二人は進言するが、義経は、今むやみに攻めて平家方に渡った三種の神器の一つである十握の剣を失うことがあっては一大事であり、それを取り戻す機会を伺っているのだと言い、六弥太には平忠度の短冊を桜の枝に付けて渡し、忠度に届けるよう命じた。直実には、「此花江南の所無也、一枝折盗の輩に於ては、天永紅葉の例に任せ、一枝を切らば一指を切るべし」と書かれた高札を渡し、須磨に陣所を構え、そこにある若木の桜をこの制札で守れと命じた。

(北野天神の段)

北野天神の境内では、義経の妻卿の君が花見をしていた。そこへ、義経が熊谷直実の息子小次郎直家と訪れた。卿の君は二人を幕の内へと招き入れる。
だがその隣の幕には、卿の君の父である時忠が、源氏の梶原平次景高と平山武者所末重を連れてきていた。時忠には卿の君のほかに玉織姫という娘がいたが、これが平経盛の養女となっていた。時忠は、この玉織姫をいずれ経盛のもとから取り返し、平山武者所に嫁がせる約束をする。また時忠は、いずれ卿の君も義経の手から奪って、景高に添わせようという。この密談は、義経たちにも聞え、小次郎は怒って幕を飛び出し、時忠たちを討とうするが義経に止められる。
しかしその間に、卿の君が、父の悪事を悲しみ自害してしまった。これには義経や小次郎、腰元たちも嘆き悲しむが、義経は小次郎たちに卿の君の亡骸をカゴに乗せ館へ帰るように命じ、自分は一人別に帰っていった。
カゴに小次郎が付き添い一行が館に帰ろうとすると、景高と平山が手下を連れて現れ、卿の君を奪おうとする。小次郎は応戦するが、カゴを残して逃げ去る。景高と平山がカゴの中を改めると、卿の君は死んでいるので二人とも驚いていると、そこへ時忠も来て娘の死を悲しみ、その場で野辺の送りをすることになる。

(経盛館の段)

平家が拠点としていた福原の御所も、残っているのは平経盛とその身内だけであった。経盛は養女の玉織姫を、自分の息子である平敦盛といずれ夫婦にしようと決めていたが、源平の争いでまだそれが叶わなかった。そこに都から時忠の使者大館玄蕃が訪れ、主人時忠の意向により玉織姫を引き渡せという。経盛は玄蕃に玉織姫を渡そうとするが、玄蕃が時忠の姫を呼び戻すのは平山武者所に嫁がせるためだと言うと、玉織姫は玄蕃が指している刀を奪い、玄蕃を斬り殺した。経盛は驚くが、経盛の妻で敦盛の生母藤の方は玉織姫を誉め、敦盛を呼んで玉織姫と祝言の盃をさせるのだった。
だがこの時、経盛は、意外なことを語った。
藤の方はもと後白河院に仕えた女房であったが、経盛の妻となる前すでに懐妊しており、生まれたのが敦盛であった。しかし平家の命運は尽き、このままでは敦盛も一命を落とすことになる。そうなる前に藤の方と玉織姫を連れてすぐにここを立ち退き、都に上って身を隠し、いずれ後白河院を頼るようにと経盛は敦盛に言い聞かせる。
そこに平宗盛から、経盛に、安徳天皇や建礼門院を守護するための援軍として出立せよとの知らせが届く。経盛は敦盛や藤の方に告げる暇もなく、その場を立ち去った。だがその後で敦盛は鎧兜に身を固め、騎馬で出陣しようとする。その姿を見た玉織姫は自分も連れて行ってと頼み、藤の方も姫を連れて行くよう勧めるので、敦盛は玉織姫を連れて一谷へと向うのであった。
そこへ平山武者所の手下たちが玉織姫を奪いに攻め入ってきた。藤の方に仕える奥女中たちは薙刀や刀を持って応戦し、藤の方は経盛のあとを追って落ち延びてゆく。

■二段目(一谷陣門の段)

敦盛は平家方の大将として、一谷で陣を構えている。そこに直実の息子小次郎が一人先陣に駆けつけた。すると陣の中から管弦の音が聞える。
そこへ平山武者所も、馬に乗り駆けつける。平山は小次郎に先陣を譲り、小次郎は名乗りをあげて陣中へと入り、平家方と斬りあいとなる。そこへ直実も現れ、陣中へと斬り込むと、「倅小次郎、手を負うたれば養生加えて陣所へ送らん」と叫んで小次郎を抱え、去って行く。

『大阪五行新版絵入義太夫』「小次郎魁段」明治15年 木村文三郎編:国立国会図書館デジタルコレクション

(須磨の浦の段)艸

敦盛と離れ離れになった玉織姫は、敦盛を求めて須磨の浦まで出てきた。だがそこに平山が現れ、自分の妻となるよう迫る。敦盛を慕う玉織姫はそれを拒み、平山を罵るので、平山は怒り、玉織姫の胸に刀を突き刺した。その時背後に声が上がり、平山は平家の手勢が自分を追ってきたのかと恐れその場を逃げ去る。

(組討の段)

平家の軍は船に乗り、八島へ向けて退こうとしている。敦盛もその船を目指し沖に向って馬を走らせていると、騎馬の直実が、引き返して勝負あれとの声を掛ける。

絵はがき:歌舞伎座(一谷嫩軍記)熊谷次郎直実(吉右衛門)

敦盛は引き返し、一騎討ちとなる。やがて互いは組み合ううちに馬から落ち、最後は直実が敦盛を組み伏せた。しかし直実は、覚悟を決め自分の首をとれという敦盛を憐れみ「この君ひとり助けたとて勝ち戦が負けになるまじ」と逃がそうとするが、その様子を平山武者所が、「平家方の大将を組み敷きながら助けるとは二心」と罵る。直実は、やむを得ず、敦盛の首を討ち落とした。
平山に深手を負わされ倒れていた玉織姫は、敦盛を討ち取ったというのを聞き、誰が敦盛を討ったのかと声をかける。直実はそれに気づいて玉織姫のそばに駆け寄る。直実は、討ったばかりの首を敦盛の妻玉織姫に抱かせるが、敦盛の死を嘆き悲しみながら息絶える。直実は、泣く泣く敦盛と玉織姫の死骸を馬の背に乗せ、陣所へと帰る。

『大阪五行新版絵入義太夫』「須磨浦組討段」明治15年 木村文三郎編:国立国会図書館デジタルコレクション

(菟原の里林住家の段)

菊の前の乳母をしていた林は、今は摂津菟原の里に一人住んでいる。そこに、薩摩守忠度が訪れる。忠度は、自分が和歌の師と仰ぐ藤原俊成のもとを訪れ、現在編纂の千載集に自作の和歌を加えてほしいと密かに願い出ていたが、合戦となったのでやむなく須磨にある平家の陣所に帰る途中であると述べる。林は忠度を休ませるため、奥へと通した。
その後、この家に男が忍び入り、納戸にしまってあった太刀を持ち出そうとするが、気配を察した林に取り押さえられてしまう。それは林の息子太五平だった。林は呆れるが、太五平は源平の合戦で手柄を立てようと、家に伝わる太刀を取りに来たという。そこに茂次兵衛がきて林をなだめる。実は今度の合戦で旗持ち役の雑兵がいるので、それを太五平にあてがおうというのである。それを聞いて林は、太五平に太刀を渡し茂次兵衛が持ってきた雑兵用の具足も着せて送り出す。
そこに駆けつけてきたのは菊の前であった。菊の前と忠度は互いのことを恋い慕う仲であったが、忠度が都を立ったと知り、とりあえず林を頼ろうとやって来たのである。しかし林から、すでに忠度が奥で休んでいると聞いた菊の前は喜んで奥へと入った。だがしばらくして、菊の前は奥より飛び出した。林がどうしたと尋ねると、忠度から別れの言葉を言い渡されたという。やがて忠度も出てきて、平家の命運はもはや尽き、自分もいずれ討死するであろう。平家に関わりあっては菊の前はもとより、その父俊成も源氏に目をつけられ迷惑をかけることになる。だからこのまま自分とは別れるようにと忠度は菊の前に話すが、たとえ討死するともどこまでも付いてゆくと、菊の前は涙ながらに訴えるのであった。
すると、源氏方の梶原平次景高が手勢を率いて現れた。忠度は菊の前と林を奥へとやり、太刀を抜いて応戦する。忠度の勢いに恐れをなした景高は、手勢とともに逃げ去った。そこに、義経の家臣六弥太忠澄が現れる。
六弥太は、義経より託された忠度の短冊をつけた桜の枝を差し出し、和歌が千載集に「よみひとしらず」として入集したことを忠度に知らせる。忠度は喜び、六弥太とは戦場で再会し勝負することを約束した。

■三段目(弥陀六内の段)

須磨には白毫の弥陀六という石屋が住んでいた。日暮れ、その家に同業者達が訪れ、法事があると、弥陀六は皆とともに出かけて行く。弥陀六には小雪という娘がいたが、弥陀六に石塔を建てるよう頼みに来た若者に一目惚れしていた。
その若者が石塔の件で、弥陀六の家に来た。小雪は自分の思いを伝えるが、若者は仔細あって女を近づけることはできない身の上であるという。それでも納得しない小雪に、若者は、錦の袋に入った笛を出し、かわりにこれを形見にせよと渡す。弥陀六が帰ってきて、注文の石塔はすでに出来ているので、弥陀六は若者を石塔のあるところまで案内しに再び出かける。

(御影の松原の段)

弥陀六と若者は、石塔の前にたどり着く。そこへ百姓たちが通りかかり、小雪も若者にもう一度会いたいと、先ほど貰った笛を持ち弥陀六と若者の後を追いかけてやって来た。ところが気がつくと、石塔を注文した若者の姿は無い。弥陀六と百姓たちは、注文主が代金も払わずに消えるとは、何かの騙(かた)りであろうと言っていると、藤の方が走り来た。
藤の方は百姓たちに道を尋ねたが、ふと小雪が持つ笛を目にして驚く。それは、敦盛愛用の青葉という笛だったのである。さらに藤の方は、敦盛が直実によって討たれ、玉織姫も死んだことを聞く。しかし、その敦盛の形見を小雪が受け取ったこと、弥陀六が案内した若者がいつの間にか消えていたことから、石塔を注文しに来た若者は、敦盛の幽霊に違いないと皆は言い合った。

(熊谷桜の段)

須磨に置かれた直実の陣屋には、花を咲かせた若木の桜があり、その傍らに義経から託された制札が立っている。そこに直実の妻相模が訪れ、そのすぐ後に、藤の方が陣屋に駆け込んでくる。
相模は藤の方をみて驚く。実は16年ほど前、相模はまだ後白河院のもとにいた藤の方に仕えていたが、そのとき佐竹次郎と名乗る警護の侍だった直実と恋仲になり、それが知られて二人とも処罰されそうになった。だが藤の方の口添えにより二人は助かり、都を落ちていった。その後、佐竹次郎は熊谷直実と名を改めて義経に仕え、相模は小次郎を産んでいたが、藤の方とは長らく音信不通になっていたのである。藤の方は佐竹次郎が熊谷直実であることを聞き、わが子敦盛の仇として直実を討たせよと相模にいう。そこへ、梶原景高が弥陀六を縛って連れて来たので、相模と藤の方は隠れた。
直実の家来堤軍次が出て景高に応対するが、景高は連れて来た弥陀六に詮議の筋があり、それについて直実に話があるのだという。軍次は、主人は外出し留守であるというと、では待たせてもらおうと、景高は弥陀六を引っ張って奥へと入る。

(熊谷陣屋の段)

『大阪五行新版絵入義太夫』「一谷嫩軍記熊谷陣屋段」明治15年 木村文三郎編:国立国会図書館デジタルコレクション
熊谷陣屋:熊谷市立熊谷図書館蔵

一谷合戦から直実が陣屋に戻ってきた。藤の方と相模は敦盛をなぜ討ったと質すが、直実は、致し方ないことであると言い、敦盛を討った様子を語る。そして相模に、藤の方を連れ直ぐにここを立ち去れといって奥へと入った。
相模は藤の方が持っている敦盛の形見の笛を目にし、それを吹いたらよい供養になろうと、笛を吹くのを勧める。藤の方はその勧めに従い、笛を吹いた。その時、障子に人影が映る。もしや敦盛の幽霊かと藤の方は急ぎ障子を開け放すと、そこには敦盛が着ていた鎧兜が置かれていた。藤の方と相模は、あまりの切なさに涙した。

絵はがき:(一谷嫩軍記)熊谷陣屋

再び奥から、敦盛の首が入った首桶を持って直実が現れる。それを見た相模はひと目その首を藤の方にと夫を引き止め、藤の方も直実にすがりつくが、義経に見せるまでは誰にも見せられぬと直実は二人を突き放し、義経のもとへと行こうとする。その時、義経が現れた。直実は、義経の前に首桶と義経より託された制札を置き、制札の文言に添って首を討ったと述べ、首桶を開けた。

絵はがき:(帝国劇場熊谷陣屋)熊谷直実(幸四郎)

義経は首を検分し、よくぞ討った、縁者にその首を見せて名残を惜しませよという。直実は、相模に、藤の方に敦盛の首を見せるようにと首を渡した。相模は嘆き悲しみながら藤の方に見せると、藤の方は首を見て驚く。それは敦盛ではなかった。
義経は、敦盛が後白河院の落胤であることを知り、なんとかその命を助けたいと考えていた。そこで小次郎をその身代りに立てろとの意を込めた制札を直実に託し、直実はその義経の意向に従った。一谷の平家の陣所で手傷を負ったと連れ去ったのは敦盛であり、須磨の浦で直実と戦って首を討たれたのは敦盛と同じ16歳の息子小次郎だったのである。
やがて出陣の合図である陣太鼓が鳴り響き、直実は支度のために義経の前から下がった。そこへ景高が飛び出し、敦盛を助けたことを鎌倉へ注進せんと駆け出そうとするが、背中に石鑿が飛んできて突き刺さり、景高はその場で絶命する。人々が驚いていると、出てきたのは石屋の弥陀六である。石鑿は、弥陀六が投げたものであった。義経は、弥陀六が実は平家の武士、弥平兵衛宗清であると見破り声を掛ける。弥陀六は、自分の正体を明かし、娘の小雪というのも実は平重盛の忘れ形見であり、そして自分がかつて常盤御前に抱かれていた幼児の義経を助けなければ、今の平家の悲運はなかったものをと嘆くのであった。

絵はがき 帝国劇場第十八回興業中幕(一谷嫩軍記)熊谷陣屋の場

すると義経は、石屋の親父に渡すものがあるといって先ほどの鎧櫃を渡した。これを娘に届けよというので、宗清が蓋を開けるとそこには敦盛が入っており、藤の方は思わず駆け寄るが、弥陀六が何にもないと押しとどめ、敦盛の命を助けた直実に礼をいうのであった。一方、鎧兜に身を包み再び義経の前に現れた直実は、義経に暇乞いを願い出て、兜を脱ぐと、その頭は髻を切っており、鎧を脱ぐとその下は袈裟姿であった。直実は小次郎の菩提を弔うために、僧侶となる覚悟をしていたのである。義経は、直実の心根を察し暇乞いを許すと、直実は、「16年は一昔、夢だ夢だ」と嘆き、戦の無常を歎きながら、京都黒谷の法然上人のもとへ向かった。

浮世絵:熊谷蓮生法師:熊谷市立熊谷図書館蔵

■四段目(鶴岡八幡の段)

京の傾城菅原は、六弥太忠澄がその妻に迎えるために身請けされ、はるばる鎌倉まで下ってきた。一方、菊の前と林も鎌倉に到着するが、鶴岡八幡で平家の余類として捕まりそうになるのを、深編笠をかぶった侍に助けられる。だがその侍から、忠度が須磨の浦で六弥太に討たれたと聞かされる。忠度の死を悲しみ自害しようとする菊の前に、侍は忠度の仇を討つ気はないかと言い、その方法について教える。

(六弥太館の段)

菅原は武家風の女房の姿で六弥太の館に入った。六弥太はまだ帰っていないので、菅原は奥で休息することになる。そこに、京の傾城菅原だと称する女が傾城姿で、遣手も従えて現れたが、実はこれは菊の前と林であった。二人は、菅原と称して館に入り込み、六弥太に近づき仇を討とうとしたのである。やがて六弥太が帰ってきた。菊の前は忠度の仇と林とともに討とうとするが、その顔を見て二人は驚く。なんと鶴岡八幡で、自分たちを助けた深編笠の侍ではないか。六弥太は暮六つまで待てと言い奥へと入り、菊の前と林もとりあえず仇を討つのは待つことにしてその場は別れる。

(楽人斎隠居所の段)

六弥太は合戦の後、一人の男を連れてきて大事に扱っていた。この男は隠居楽人斎と称し、六弥太の屋敷内に作られた隠居所で暮らしている。
そこへ菅原が六弥太を探してさまよい出るが、六弥太を討とうと探していた菊の前が菅原と出くわす。菅原は菊の前に何者かと問うと菅原だと答えるので、なにをいう菅原とは自分のことだ、いや自分だと言い争いをしていると、隠居所から楽人斎が姿を見せた。そこに六弥太も出てきて、楽人斎はどちらが本物の菅原か自分が見極めてやるという。ところが楽人斎は本物の菅原を偽者と決めつけたので、菊の前はその場を逃れて奥へと入った。そして本物の菅原は、自分の女房にするから離縁せよと六弥太にいう。楽人斎は、あの菅原と偽った女の正体は実は死んだ忠度の恋人菊の前、その仇を討とうと六弥太に近づいたのであり、どうせ六弥太は菊の前に討たれる。だから自分のいうことを聞け、六弥太は菅原に離縁状を書いて渡せという。あまりの言葉に菅原は怒り、そばにあった刀で楽人斎に斬りかかるがよけられる。
実は楽人斎は、合戦の時、六弥太に従った雑兵であった。六弥太は須磨の浦で忠度と戦った際、忠度に組み敷かれ討たれそうになったが、そのとき楽人斎が駆け寄って忠度の右腕を斬り落とした。それで六弥太も忠度を討つことができたのである。その功により六弥太は楽人斎を自ら引き取って面倒をみていたのだった。だがもう堪忍ならぬと、六弥太は着ていた鎧で楽人斎を散々に殴る。そこへ、これまでの話を聞いていた菊の前が飛び出し、楽人斎こそ忠度の仇と、持った刀で楽人斎の右腕を斬り落とした。なおも斬りつけようとする菊の前を楽人斎は止め、六弥太はその場に林を縛って引き出し、二人は意外なことを物語る。
楽人斎とは実は林の息子太五平であり、菅原はその実の妹であった。そして兄妹の父親とは、平重衡の家来でその重衡を裏切った後藤兵衛守長だったのである。太五平は手柄を立てるという口実で雑兵となり、幼少のころ別れた父守長を戦場で探していた。そのとき六弥太が忠度と戦うところに出くわし、平家に味方せんと六弥太を討とうとした。ところが手元が狂い、忠度の右腕を斬ってしまったのである。そして忠度は六弥太に討たれた。その申し訳なさにいったんは切腹しようかとも思ったが、この上は平家の恨みをはらそうと、その機会を伺って今日まで生きながらえてきたのだと。
一方、六弥太は菊の前の父藤原俊成から頼まれたことがあった。俊成は和歌の弟子である忠度の命を惜しみ、ひそかに六弥太に忠度を救ってくれるよう頼んでいたのである。六弥太はそれを承知し、須磨の浦で忠度と勝負した時、その命を助けようとしたのだが、太五平が忠度の右腕を斬ってしまった。その深手によりもはや助けられず、やむなく忠度を討ったのだと。また太五平のことについては、六弥太はかねてからその素性に不審を抱いていた。そこで自分のもとに引き取り様子を伺っていたのを、その母の林が鎌倉に来たのを幸い、敵討ちにかこつけて菊の前と林を自分の館へとおびき寄せ、林を捕らえて父親が後藤兵衛守長であることを聞き出していたのである。
語り終えて太五平は、菅原が刀を持っていたその手を掴んで自分の脇腹を突かせた。驚く菅原と林。だが太五平は、これは本来敵対する平家の余類である菅原を、源氏の武士である六弥太に添わせるためであり、先ほど女房になれなどといったのも、菅原の手にかかり兄妹の縁を切らせるためであった。どうか妹を見捨ててくださるなと太五平は六弥太に頼む。これを聞いて菅原や林はもとより、菊の前も今は仇を討つ心も失せ、その心根に涙するのであった。
すると、平家の菅原とは添われぬ、ここを出て行けと六弥太がいきなり言い出す。それはあんまりなと菅原が言おうとすると、六弥太が追い出したのは菅原と名乗った菊の前と林であった。すなわちこれで本物の菅原を妻とすることに、何の障りもないとしたのである。太五平は六弥太の心遣いに感謝する。また六弥太は菊の前に向って短冊を投げ出した。見るとそれは、「ゆきくれて このしたかげを やどとせば はなやこよひの あるじならまし」という忠度が書いた辞世の歌であった。菊の前は涙して六弥太に礼をいう。

「楽人斎隠居所」国芳画:楽人斎に斬りかかる菊の前 ボストン美術館蔵

■五段目(鎌倉御所の段)

平家滅亡後、平時忠は鎌倉に下向して頼朝に対面し、義経が三種の神器の内の神璽と内侍所を奪い、頼朝に背こうとしていると讒言するが、京にいたはずの義経がその場に出てくる。義経も密かに鎌倉に下り、頼朝とともに時忠の悪事を暴こうとしたのであった。時忠は三種の神器の内の十握の剣を隠し持っていたことが知られ、六弥太に捕縛される。そこへ、平山武者所も扇ヶ谷に陣を構え、頼朝への謀叛を起こそうとしているとの知らせが来る。義経は六弥太をはじめとする手勢を率いて出陣する。

(扇ヶ谷平山陣所の段)

平山の陣所に六弥太が軍勢を率いて攻め入り、平山の手勢はことごとく討たれる。その勢いに恐れて平山は逃げ出そうとするが、六弥太に捕まり、ついに義経の前で首を討たれた。時忠も首を討たれそうになるが、蓮生と名を改めた直実が飛んできて、時忠はかりにも大納言という高位の公家なので処断は朝廷に任せることにし、自分に身柄を預けてほしいと義経に願い出る。義経はこれを許し、家臣を率いて再び京へと上るのであった。

【参考資料】「一谷嫩軍記」初演台本(江戸時代:22.0×16.0cm)

歌舞伎「一谷嫩軍記」の台本。初版本で、7行本と十行本とがある。十行本の奥付を見ると、宝暦元年(1751)12月11日の日付があり、作者の中に故人として並木宗輔(1965-1751:浄瑠璃作家)の名が見られる。個人蔵。

「一谷嫩軍記」初演台本 七行本 個人蔵
「一谷嫩軍記」初演台本 十行本 個人蔵

2.須磨都源平躑躅(すまのみやこげんぺいつつじ)

文楽・歌舞伎の演目。江戸時代中期の浄瑠璃作者文耕堂(生没年不詳)・長谷川千四(1689-1733)の合作で、享保15年(1730)11月大坂竹本座初演。『源平盛衰記』から一谷合戦の熊谷・敦盛、薩摩守忠度と岡部六弥太の挿話を脚色したもの。後の「一谷嫩軍記」に影響を与える。五段構成。
文楽・歌舞伎の演目で、平家が都を須磨に置き、義経が躑躅谷に本陣を構えたことに、由来がある。歌舞伎化されて二段目「扇屋」だけが後世に残り、天保3年(1832)西沢一鳳が書き加えた「五条橋」の場をつけ、『源平魁躑躅』『魁源平躑躅』などの外題で上演される。通称「扇屋熊谷」。

『須磨都源平躑躅』:演劇台帳:国立国会図書館デジタルコレクション
新富座筋書(源平躑躅)
熊谷市立熊谷図書館蔵

【あらすじ】
平家が、寿永3年(1184)2月、源氏に追われ、安徳天皇を戴いて西国へと逃れると、平敦盛は、家来筋の五条の扇屋上総(若狭)のもとに、扇折の小萩と称し、女装して身を隠していた。上総の娘桂子は小荻を慕っていた。
ある日、扇屋上総の店に熊谷次郎直実が軍扇を求め訪れる。直実は、折りかけの陣扇を所望するが、上総がそれはさる御方の御誂えで、今日の夕方までに渡す約束なのでと断っていると、奥から笛の音が聞こえてくる。

絵はがき 帝国劇場正月興行(扇屋熊谷)御影堂の場

そこへ、姉輪平次、薩摩守忠度が、敦盛を捕まえに来る。折子の詮議が始まり、小荻がのれん口から引き出され、胸に手を入れられようとする。すると直実は、名ある侍の道に背く曲事と後指さされるのも笑止と立ち上がり、平次と忠度を投げ飛ばす。すると平次は、先程より敦盛の詮議をしないでおし黙っているのは、平家の残党を見逃せとの鎌倉殿の御諚ばしか。さりとは鎌倉武士は、詮議の程がてぬるいと言う。
そこで直実は、鎌倉殿が見許せとの仰せも無く、また扇屋まで吟味せよとの御掟も聞いていないが、京の武士に手ぬるいと言われるのも恥ずかしいので、敦盛の詮議、これにて糺し見せようと言って、詮議を始める。上総に、その女には用は無い、ほかに隠している敦盛がいるだろう。居るならいる、居ないなら居ないと直ぐに申せと言い、上総に敦盛を匿っていることを認めさせる。 直実は、疑いの晴れた小荻に、奥の君にこの事を伝え、御最後を勧めるように伝えるよう言うと、上総は、小萩の手を取って奥に入って行った。やがて上総が白に包んだ首を持って出てくる。
平次が首を改め、でかした、この褒美に匿った罪を許すと首を持ち、熊谷殿さらばと駆け出す。すると直実は、抜け駆けは許さんと、平次を引き戻して投げ飛ばし、首を奪い取る。

錦絵:源平魁躑躅:熊谷市立熊谷図書館蔵

敦盛に代えて娘桂子の首を差し出した上総の不憫さに、直実は襖を開けて奥へと入っていく。その間、上総とその妻このと敦盛が、身代わりとなった桂子の首に別れを告げる。
そこへ堤軍次が一谷へと直実を迎えに来る。直実は馬にまたがり帰ろうとすると、敦盛が「ヤアヤア熊谷」と呼び止め、衣装を引き抜く。すると、下には鎧下を着込んだ狩衣に馬乗袴の姿が現れる。
敦盛は、「イヤナニ熊谷殿、御所望のこの扇分けて一本進上申す」と扇を差し出し、直実は「互いの勝負は戦場にて」と別れを告げる。

3.熊谷出陣(くまがやしゅつじん)

岡本綺堂作、歌舞伎の演目。直実が愛馬「権田栗毛」を所有するに至った経緯を演目にしたもの。大正12年5月新富座初演。直実・源兵衛を7代目松本幸四郎、直家を市川壽美蔵、権太を2代目市川左団次が演じている。
【あらすじ】
治承4年9月下旬の武州熊谷郷の直実の屋敷内。
源氏再興のため挙兵した頼朝に応じ、出陣の準備をしていると、納屋の中から熊が現れ、直実の愛馬「月毛」の足が折られてしまう。馬飼の権太は責任を感じて、代わりの馬を探しに行くことになる。
直実は「近いところに秩父もあるが、あすこの馬は小さうて乗心地がわるい。殊に畠山の領分ぢや。熊谷直実がいざ出陣の間際になって、乗馬を探し廻ったなどと噂されては、武籩の嗜みが至らぬやうに思はれて、近頃無念の儀ぢや。やはり奥州まで走らせねばなるまいがなう」、「さうぢや。どうでも馬は奥州がよい。では権太。これからすぐに奥州へゆけ」そう言って、権太に砂金240貫を持たせた。

紙芝居 「熊谷出陣」(昭和31年制作):熊谷市立熊谷図書館蔵

奥州三春の馬市に着いた権太は、ようやくのことで栗毛の名馬を見つけたものの高価で買えず、奪おうとして、持ち主の狐塚村の源兵衛に取り押さえられてしまう。

紙芝居 「熊谷出陣」(昭和31年制作):熊谷市立熊谷図書館蔵

しかし、権太の主人が直実と判ると、源兵衛は「この馬は狐塚村の源兵衛が自慢の大栗毛だ。日本中を駆けまわっても滅多に膝をつくやうなことはねえ。これならどんな功名手柄でも立派に出来る筈だ。早く連れて行って主人をよろこばせてやれ」と馬を渡す。
権太は、奥州から昼夜飲まず食わずで駆け通し、直実の館に着く。出陣に間に合った直実は、「むむ、これならば今までの「月毛」にまさるとも劣らぬ。権太。ほめてやるぞ。」と権太の肩に手をかけるが、権太は土に手をつきながら弱り伏せ、死んでしまう。
直実は「冥土のみやげぢや。たしかに聞け。熊谷次郎直実は今この馬にまたがって出陣する。おのれの名に因んで、権太栗毛」と言い、出陣していく。

紙芝居 「熊谷出陣」(昭和31年制作):熊谷市立熊谷図書館蔵

4.黒谷(くろたに)

歌舞伎の演目。12代目市川團十郎(1946-2013)のペンネーム三枡屋白治(みますやはくじ)による新作歌舞伎。2009年名古屋むすめ歌舞伎で初演。
『一谷嫩軍記』の二段目、三段目の続きにあたる話で、一谷合戦で、敦盛の身代わりとして我子小次郎を討ち、「16年は一昔」の名台詞で去った僧蓮生の後日談。
【あらすじ】
蓮生が我子小次郎の菩提を弔おうと比叡山の黒谷に来ると、3人の亡霊が次々に現れる。
青葉の笛の音と共に現れた敦盛は、助けられたことに感謝するが、助けたのは義経の出世欲のためだ。討ち死にの覚悟は出来ていた。生き延びたため平家の無残な姿を見てしまったという。
次に敦盛の妻玉織姫が現れる。死に際に直実から差し出された首は、敦盛では無く、小次郎であり、悲嘆にくれる。
二人の嘆きを聞き、蓮生は後悔し慟哭するが、最後に小次郎が現れ、武士の道ゆえ仕方ないと慰める。