直実の参戦した戦

1.石橋山の戦い(神奈川県小田原市石橋:直実40歳)

 治承4年(1180)8月、以仁王(もちひとおう)の令旨を受け源氏再興のため挙兵した源頼朝(北条時政、北条義時、土肥実平他)と平氏政権勢力(大庭景親、俣野景久、渋谷重国、海老名李貞他)との間で行われた戦い。頼朝軍300騎が石橋山に陣を構え、平氏軍は谷を隔てて3,000騎が布陣して戦い、頼朝は惨敗して箱根の山中へ敗走した。この時直実は、大庭景親に従い平家方として参戦している。
 『源平盛衰記』では、敗走し伏木の洞に隠れた頼朝を、梶原景時があえて見逃し、確かめようとする大庭景親を、機転を使って退けた逸話が残っている。
 これに対し、『熊谷氏系図』(熊谷寺所蔵:慶長8年)には、直実は源氏方についており、頼朝が真鶴まで逃げてきたが、自害しようと刀に手を掛けたところ、直実は、まずお命を全うしてくださいと、栗の木の洞の中に頼朝を入れ、ほやの枝を折って入り口を被い、直実もその木の前に隠れた。そこへ梶原景時が来たため、直実は姿を現し、「内々に源氏方のお味方になるとのこと、それはこの時です。急いで来てください。もしお味方にならないのであれば、私と刺し違えましょう」と言うと、梶原は「頼朝とお会いしたいが、今は平家方が続々と追いかけてきている。日が暮れたころにここに来よう。そのときに直実と話がしたい。」と言って通り過ぎようとした。
 するとまた後から平家方の武者が来て、「頼朝はこのあたりまで逃げてきたのだろうか。梶原殿は何でしっかりと探さないのか。」と疑ったので、梶原は怒り、「今まさに探そうとしていたところだ。」と言った。その時、その木の洞から鳩が二羽飛びだした。それを見て梶原は「あれを見よ。人が隠れているならば、鳩はこの洞に出入りはしないだろう。」と言ったので、それももっともと、平家方の武者は通り過ぎた。
 後に頼朝は、直実のはかりごとにて命を助けられたとして「ほやに向かい鳩」の家紋を授けた』と記している。
 現在、頼朝が隠れたとされる洞窟が神奈川県真鶴町真鶴と湯河原町鍛冶屋(土肥椙山巌窟)の二箇所に「しとどの窟」として残されている。

「石橋山の朽木小霊鳩頼朝を助く」

2.佐竹城の戦い(茨城県常陸太田市上宮河内町:直実40歳)

 治承4年(1180)11月4日、常陸国金砂城における源頼朝軍と常陸佐竹氏との戦い。
 治承4年(1180)10月、富士川の戦いに勝利した源頼朝は、敗走する平家を追撃すべしと命じるが、上総広常、千葉常胤、三浦義澄らが、まず挙兵しなかった佐竹氏を討つべきと主張したため、頼朝は佐竹討伐に向かった。堅固な要塞の金砂城に立てこもった佐竹秀義に対して、総攻撃が仕掛けられた。頼朝軍として参加していた直実は、愛馬権太栗毛に乗って出陣し、常に平山武者所李重等と「坂東一の豪の者、熊谷次郎直実なり、一気に押し込め」と先陣を切って進み、活躍したとされる。
 直実は、この時の戦功により、治承6年(1182)5月30日に頼朝下文により熊谷郷地頭職が安堵された。『吾妻鏡』には「直実万人に勝れ前を懸く、一陣懸け壊ち、一人当千の高名を顕す、その勧賞として」「久下権守直光押領事を停止し、直実を以て熊谷郷の地頭職を安堵する」と記されており、直実は御家人として承認された。

西金砂神社本殿からの展望
(出典:西金砂山-Wikipedia)

3.宇治川の戦い(京都府宇治市:直実44歳)

 寿永3年(1184)1月20日、木曽義仲と源範頼・源義経らの軍とで戦われた合戦。鎌倉勢は、尾張から二手に分かれ、大手は範頼を大将として総勢35,000騎が瀬田に、搦手は義経を大将として25,000騎が宇治橋の袂に押し寄せた。
 『延慶本平家物語』によると、義経軍は、宇治川に到着したが、雪解け水で増水した宇治川に架かる橋板は義仲勢により外され、川には渡河を防ぐための乱杭や逆茂木が設置されていた。義経は、泳ぎの得意な者は鎧を脱ぎ川に入り、偵察・先導せよ、また向こう岸に敵方が矢を射かけんと構えていることから、我と思わん者は橋桁を渡りかの敵を追い散らし援護せよと命じた。これに応えたのが、平山李重、熊谷次郎直実とその子小次郎(初陣:16歳)ほか3名であった。敵の矢が降り注ぐ中、5人は橋桁を腹ばいになり無事渡りきると、直実は扇を開いて「木曽殿の郎従ではない駆武者は、命を大事にして落ちよ。」と叫び、弓を放ち、藤太左衛門兼助なる武者を討ち取っている。この直実に気圧され、矢を射ようとする者は一人も無く、その間、鹿島与一は川の中の障害物を除去していった。そして、名馬「するすみ」に乗った梶原景季と、名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱の「宇治川の先陣争い」で合戦の幕が切られた。

宇治川先陣の碑
『熊谷蓮生一代記』巻之二「宇治川の合戦図」
「宇治川大合戦図」

4.一の谷の合戦:須磨浦公園(兵庫県神戸市須磨区一ノ谷町:直実44歳)

 寿永3年(1184)に一の谷の戦いの地にある面積103.8ヘクタールの公園。神戸市が管理運営する。「一谷の戦い」といわれているが、実際の合戦は、福原を中心に生田口・一ノ谷で行われた。
 また、有名な義経の逆落としは、『平家物語』『吾妻鏡』では、義経らが駆け下った場所を「鵯越」と記しているが、一谷は鵯越の西方8kmにあることから、逆落としは一谷の裏手の鉄拐山との説もある。
 源義経の奇襲部隊に所属していた直実は、息子直家と郎党の三人で平家の陣に一番乗りで突入したが、平家の武者に囲まれ、戦陣を争った平山李重ともども討ち死にしかけている。『平家物語』では、直実は、沖の助け船に逃れようとする平敦盛を見つけて、「敵に後ろを見せるな、返せ」と扇を挙げて呼び止め、一騎討ちを挑み、首を取っている。
 この合戦を契機に、武将としての直実の活躍はなくなり、以降は戦場に出ても最前線に姿を現すことは無く、我が子と同じ年頃の敦盛の首を討ったことが、大きな心の痛手となり、後年出家する動機の一つとなったと言われている。
関連遺物:敦盛塚(五輪塔)

源平史蹟 戦の濱
鉄拐山より須磨浦を望む
『熊谷蓮生一代記』巻之三「熊谷直実敦盛を討図」