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熊谷駅北口ロータリーに設置されている熊谷次郎直実像。昭和49年10月に、「熊谷次郎直実公銅像建設協賛会」の依頼により北村西望氏が、渡辺崋山の描いた直実挙扇図を元に制作したブロンズ像。一谷の戦いで、馬上から、扇を挙げて、平敦盛を呼び止めようとする姿をあらわしている。
像高3.07m、横幅3.63m、台座高2.31mで、台座には「熊谷の 花も実もある 武士道の かおりやたかし 須磨の浦風 九一寿 西望塑人」と記されたレリーフが嵌込まれている。
直実の父である直貞が、当時、この地に出没していた熊を退治してその首を埋め、後に熊野権現を勧請して熊野社を建てたと伝えられている場所。熊野社は、明治40年に高城神社境内に遷されており、現在は、大正2年(1913)12月に建てられた石碑「熊野社跡碑」のみが建てられている。書は出雲尊福、裏面の由来記は林有章による。
浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。天正10年(1582)頃、幡随意上人が蓮生の徳を慕い熊谷を訪れ、熊谷寺を中興した時、蓮生が建てた念仏道場跡に七堂伽藍を建立したため、念仏草庵をこの地に移した。その後、荒れてしまった草庵を善念という僧が再建したとされている。その時の話として、観音・勢至両菩薩の頭部を丹波国から運んだという話や、紀伊国屋文左衛門が阿弥陀如来像を寄進した話など、蓮昭寺に関する数々の逸話が伝えられている。昭和17年3月31日、御堂であった念仏堂を、宗教法人蓮昭寺と号し、浄土宗寺院とした。
創建年代不詳。祭神は天津彦火瓊瓊杵命。直実の父である直貞の「熊退治」に関する逸話にまつわる神社。永治年間(1141-1142)に直貞が熊を退治した際に、熊から血が流れ、その場所に社を建てて「血形明神」を祀ったとの言い伝えがある。江戸時代には境内で草相撲が行われ、神社には相撲の板番付が奉納されている。
祭神は倉稲魂命。直実が戦場にあった時、ある武者が度々現れ直実に加勢し勝利に導いた。殊に一ノ谷の合戦には、大手にしのぎを削り戦っていると、彼の者が来て付添い加勢した。あまりの不思議さに名を問うと、「そなたが信仰する稲荷明神である。急難を救うため熊谷三左衛門として世に現れている」と言って消えてしまった。元久2年(1205) 直実は戦場から帰ると、屋敷地内に祠を建てて祀ったという言い伝えが元になっている神社。江戸時代には特に男の子を病魔から守るため、髪を奴姿に刈って、神仏の加護を受けようとしたことから「奴稲荷」と呼ばれるようになった。
浄土宗寺院。本尊は阿弥陀如来。蓮生56歳開基。
建久7年(1196)蓮生が、自分の館の一郭に庵を結んで開放し、教えを説いたことに始まる。中興開山は幡随意上人。坂東最初の念仏道場。熊谷宿の上町にあったため上寺とも呼ばれていた。
*拝観は特定日に限られ、通常は開放されていない。
市内仲町の国道17号線脇八木橋百貨店前に建てられている宮沢賢治の歌碑。正面には「熊谷の 蓮生坊が たてし碑の 旅はるばると 泪あふれぬ」と刻まれている。大正5年(1916)9月に、宮沢賢治を含む盛岡高等農林学校2年生が、秩父地域の地質巡検のため熊谷の松坂屋旅館に宿泊した際に詠んだもの。平成9年(1997)9月2日くまがや賢治の会造立。
一谷の戦いで傷を受けた愛馬「権田栗毛」を熊谷次郎直実が解き放った際、「権田栗毛」は故郷を目指して帰ろうとしたが、この地で力尽き息絶えた。あるいは、蓮生が下向の際乗った馬(東行逆馬)が、熊谷の念仏庵に着いてから、いつもこのあたりで草を食みに来ていたが、この地で死んだとも伝えられる。
後に熊谷寺を中興した幡随意上人がこれを哀れみ、「汝是畜生発菩提心転生性」と自書した碑を建立したと伝えられている。
曹洞宗寺院。本尊は釈迦牟尼仏。建暦2年(1212)直実の娘玉津留姫が父母の菩提を弔うために建てた寺。大正11年(1922)の屋根の葺き替えの際発見された棟札に「抑当山紀津ノ義ハ熊谷直実公ノ姫玉津留父母ノ御菩提ノ為ニ建暦二壬申(1212)当山ヲ建立セラレシ七堂伽藍ニテ塔中ニモ有之候処・・・」と記されている。
元は熊谷市本町(現在の熊谷郵便局付近)にあったが、昭和20年(1945)8月14日の熊谷空襲で焼失したため、昭和38年(1963)に現在の地に再建された。
県道太田熊谷線に建つ花崗岩製の寺号石標は、「熊谷山 報恩寺」を永平寺七十三世熊沢泰禅が、左側の「開基 玉津留姫」を日本画家堅山南風(1887-1980)が揮毫している。
玉津留姫と千代鶴姫の逸話が伝わっている。
玉津留姫が戦乱のため離れ離れになっていた妹の千代鶴姫に会いたいとお稲荷様に願を掛けたところ、夢の中に白狐に乗った霊神が現れ、「これより京に向いて行けば願いは叶うであろう」とお告げがあった。そこで玉津留姫は西へ向かい、静岡県焼津市近くの川を渡し船で渡っているとき、その舟に乗り合わせた美しい女性の袖と玉津留姫の袖とが生き物のように結び合ったので、語り合うと妹の千代鶴姫だった。姉妹は大変喜びし、このお稲荷様の神通力に感激し、以後、袖引き稲荷と呼ぶようになったとのこと。
真言宗寺院。本尊は子安歓喜地蔵菩薩。享保5年(1720)、新発田藩七代目藩主溝口出雲守直温により創建。福王寺が廃寺となった後、明治初めころに直実の娘二人の守り本尊である毘沙門天を移している。玉津留姫の守り本尊は、別に薬師三尊(薬師如来、日光菩薩、月光菩薩)と十二神将が伝えられており、養平寺は、千代鶴姫の守り本尊として毘沙門天を祀っている。
福王寺跡の墓地に、玉津留姫の墓と伝えられる墓がある。板状の結晶片岩に歓喜3年(1231)8月3日 熊谷次郎直実女玉津留姫墓と刻まれている。戒名は佛導院殿一乗殿妙蓮大禅定尼。傍らには、侍女の墓と言われる自然石が建てられている。
福王寺は明治初年に廃寺となり、現在は御堂を残すのみとなったが、『新編武蔵風土記稿』の福王寺の項に、「原島村福王寺、本尊毘沙門天ハ春日ノ作ニテ熊谷次郎直実ノ女玉鶴津留、千代鶴二人ノ守本尊ナリ」と記載されている。本尊は、明治2年(1869)養平寺に移る。
曹洞宗寺院。久下次郎重光が、建久2年(1191)開基と伝わる。本尊は釈迦如来。忍領三十四所四番。もとは久下氏の館跡と伝えられる場所辺りにあったのを現在の地に移したとされる。
寺紋の㊀は久下氏の家紋と同じで、源頼朝が石橋山の戦いに敗れ、わずか7騎で落ちのびるところに、重光が300騎で駆けつけ、喜んだ頼朝が「一番」という文字を自ら書き与えて家紋とさせたと伝えられている。
直実は、叔父の久下直光に養育されていたことがあり、また、久下氏と熊谷氏との領地の境界争いは『吾妻鏡』にも取り上げられている。
境内には久下重光・直光親子の墓所(供養塔)がある。
熊谷の「熊」と久下の「久」を取り、熊谷と久下との境界付近の土地を「熊久」(ゆうきゅう)と呼ばれ、そこを流れる元荒川に架かっている旧中山道の橋が、熊久橋と呼ばれている。当時は洪水の度に水路が変わり、この付近での直実と久下直光との境界争いが絶えず、頼朝の裁きを受け直実は出奔し、幕府の調停により解決したのが正安2年(1300)の事である。
熊谷次郎直実の愛馬「権太栗毛」を祀った社と伝えられている。『新編武蔵風土記稿』「大里郡之三 御正領 駒形明神社」に、「社伝に、昔万吉村の権太が熊谷直実の所望により譲った栗毛の駿馬が、一の谷の合戦で活躍した後、黒谷に廻り、古郷に帰れと乗捨てられたことから、遠路を越え、此所に来りも遂に息絶えた。村人は、この馬を手厚く葬った」と記載されている。この駒形明神社は、明治40年(1907)に字駒形から現在の渡唐神社に合祀される。