権田(権太)栗毛に関する伝承地

1.群馬県高崎市倉渕町権田

権田村の地は、古くから牧場が設けられ、沢山の馬を飼っていたので名馬を出すことがしばしばあり、いずれも「権田栗毛」と称したといわれている。初代の「権田栗毛」は、熊谷次郎直実の愛馬で、小池市助の家から出た。三歳馬の時、壮者が5名付き添い、熊谷に引いていき、神岡に泊まるとき、両手綱をかけてつなぐほど強い馬だった。

こうして「権田栗毛」は、直実の愛馬となったが、寿永3年(1184)一谷合戦において傷ついてしまった。直実は、白布で包帯し、余命を生地権田村にて過ごさせるため放ち、生地を慕って帰ってきた。しかし、既に生家は無く、「権田栗毛」は、悲しみのあまり、屋敷跡を激しくいななきながら3度巡った。その時、権田栗毛の傷をおおう母衣が落ちて、中から一寸八分の観音像がこぼれ落ちた。村人は、その母衣を埋めて「お母衣明神」として祀り、観音像を胎内に納めた木像をつくり、御堂を建てて、岩下の岩窟観音として祀ったとされる。この岩窟観音堂の御札には、その観音像が描かれ、「熊谷次郎直實 守本尊安置」と記されている。

その後、権田栗毛は、再び主人の許に帰ろうとしたが遂に力尽き、この地で最後を遂げたと伝わる。「熊谷次郎直実乗馬旧跡」高崎市指定史跡。

さらにこの伝説について、次の事が言い伝えられている。

・最後にあたり、川の上に向かって流れる水を飲んだ。これをさかさ水という。

・約30m山際に入った場所に、権田栗毛が枕にしたという「権田栗毛枕石」がある。

・権田栗毛が着用した鞍と轡があったが、保管していた裕全寺が火災に遭い焼失した。


岩窟観音堂

岩窟観音堂御札
熊谷次郎直実乗馬旧跡
権田栗毛枕石
権田栗毛生誕の地

2.福島県天栄村牧之内宿

地名は馬の産地だったことに由来し、源義家の愛馬「薄墨」、直実の愛馬「権太栗毛」など多くの名馬を産出したと伝えられる。

3.岩手県一戸町

奥州藤原氏の時代、糖部郡は、「糖部の駿馬」と呼ばれた名馬の産地で、一戸から九戸までの戸制が施行され、一戸に7つの村を配し、一牧場を置いた。その馬がどこの産地であるかを示す際、「戸立(へだち)」と呼ばれ、宇治川の先陣争いの際、景李は「三戸立」の「磨墨(するすみ)」、高綱は「七戸立」の「生唼(いけず)」に乗り、直実は一戸の牧まで郎従を使わして、上品絹200疋を投じて名馬「権太栗毛」を求めたと伝えられる。

『源平盛衰記』には、「権太栗毛に乗りたりけり。此馬は熊谷が中に権太という舎人あり。季緒が流をも習わず、伯楽が伝をも聞かざりけれども、能く馬に心得たる者なりければ、召向て当時に源平の合戦あるべし。折節然るべき馬なし。海をも渡し山をも越べき馬、尋ねえさせよよ云て、上品の絹二百疋持せて奥へ下す。権太陸奥国一の戸に下り、牧の内走り廻りて撰勝って四才の小馬を買たりけり。初こそ此馬をば権太栗毛とは呼びけれ。」とある。