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安芸熊谷氏の菩提寺であった観音寺の跡地。本尊は如意輪観音。
承久3年(1221)の承久の乱の後、討死にした熊谷直国(■-1221)の功績により、熊谷時直(1217-1280)は安芸国三入の地頭に任ぜられ安芸国三入庄に入部した。その後、第5代直明(1349-1403)が菩提寺として応永8年(1401)に空坦を招いて、正法山観音寺として創立した。慶長10年(1600)、熊谷氏が防長州(山口県)に移封された後は廃寺となる。
現在は、熊谷氏の定紋である穂矢を刻んだ須弥壇を安置した観音堂と全長100m程の巨大な石垣が残されている。境内南側には4代~13代までの三入熊谷氏の墓所があり、50基余りの五輪塔、宝鏡印塔があり、元直の妻が元直の腕を洗ったとされる井戸などが残されている。広島県指定史跡。
戦国時代の安芸熊谷氏の館跡。
熊谷高直(1527-1579)によって、居城三入高松城の麓に建てられた居館。安芸熊谷氏3代から13代までが居住した。敷地には石垣がめぐらされ、西方には根谷川、北には堀を構えている。現在は、巨石を使った石垣、石段、門跡、土塁などが残されている。広島県指定史跡。
安芸国三入荘を領地とした熊谷氏の居城。承久3年(1221)に勃発した承久の乱の戦功により安芸国に入った熊谷直時(1217-1280)は、伊勢ヶ坪城を構え、居城とした。この城を南から守るため、三入荘の両側の山に城(砦)を築いた。その形が馬の蹄に似ていることから、馬蹄形城郭と言われている。
戦乱の時代になると、4代熊谷直経(1283-1365)は、比高も低く防御力の高くない伊勢ヶ坪城から高松城へ居城を移している。石垣、土塁、堀切が残る。
安芸国三入荘を領地とした熊谷氏の居城。安芸に入った熊谷氏は、当初三入荘の北端に伊勢ヶ坪城を構えたが、その後4代熊谷直経(1283-1365)は、この急峻な高松山に居城を構えた。
現在は、井戸跡や馬場跡、石垣、本丸の土塁跡などが残る。広島県指定史跡。
曹洞宗寺院。直実の孫にあたる熊谷直宗開基で、菩提寺。
由緒縁起:直宗は、建久7年(1196)直実の孫として生まれる。24歳の時に鎌倉に出て、藤原頼経に仕えたとされる。承久3年(1221 )後鳥羽上皇が鎌倉幕府の倒滅を企てた承久の乱で、幕府軍の一員として京都に進軍し、この乱から2年後の貞応2年(1223)本吉、桃生両郡合わせて三千余町を与えられ、気仙沼に下向し、赤岩館を居城として奥州熊谷氏の祖となる。建長7年(1255)10月2日60歳で死去。
気仙沼市は、全国で最も熊谷姓(約1,350世帯)が多い町と言われている。
関連遺物:直実の供養碑、直家の三男直宗の墓・位牌など。位牌には「熊谷次郎大夫左兵衛尉直貞長男直実長男同苗小次郎左兵衛尉従五位下 直家長男同苗小次郎平内左衛門尉従五位下直国安藝國熊谷家祖 寶鏡寺殿直蓮宗正大居士 直家第二男熊谷平三兵衛尉従五位下直宗貞応二年八月為奥州主 政賜釆地三千餘町建長七年十月二十日卒行年六十歳」と記されている。