歌・句・詩

川柳・俳句・狂歌・漢詩等に詠まれた直実・蓮生、敦盛などについて紹介します。

1.川柳

【直実・蓮生関連】
  • 熊谷ハ まだ實の入らぬ 首をとり 『俳風柳多留』(一)岩波書店 1995年
  • れんしように 成きぬうりの ゑこうする 『俳風柳多留』(二)岩波書店 1995年
  • 熊谷ハ ふしやうぶしようの てがらなり 『俳風柳多留』(三)岩波書店 1995年
  • 蓮生ハ 中てもひたい 生キて見へ 『俳風柳多留拾遺』(上)岩波書店 1995年
  • 熊谷ハ まだ実のいらぬ 首をとり 『俳風柳多留拾遺』(上)岩波書店 1995年

  • 熊谷の 土手と稲荷は 大ちがひ :武州熊谷の土手は絹売りがねらわれる
  • 蓮生が 馬上朝日が 背へ当り
  • 蓮生の 馬士尻へ来て 吸付ける
  • 招た扇 熊谷は 毛請にし :敦盛を招た扇を毛受に剃髪した
  • 永カどうを ふらぬ熊谷 うんのよさ :賭博語
  • 熊谷の 月の輪あたり 頭陀袋 :熊の月の輪
  • 直さねへ 土手のぶつそう うつたへる :武州熊谷の土手新編『川柳大辞典』粕谷宏紀 平文社 平成7年

  • 熊谷は 扇をさして 太刀をぬき :先ず扇で呼戻し
  • 熊谷は まだ實の入らぬ 首を取り :敦盛時に十六歳
  • 熊谷は 不性無性の 手柄なり :實は生かしたし
  • 近づきに なつて熊谷の 首をとり :互に名乗り合ひ
  • 馬の屁を かいで熊谷 馬に乗り :蓮生坊後向きに乗馬
  • 熊谷の 馬子此法師 ふれたわへ :気が違ったわい
  • 月の輪へ 熊谷坊を 連れ給ひ :月輪関白殿の許へ『川柳大辞典』上巻 日文社 大曲駒村 昭和30年

  • 蓮生は 中でもひたい 生きて見え :兜の為禿げ上がってる
  • 蓮生に なり絹賣の 回向する :白井権八が熊谷堤の利かせ『川柳大辞典』下巻 日文社 大曲駒村 昭和30年

【敦盛関連】
  • 敦盛も 討たるる頃は 聲がはり :二八は色気付く年
  • 敦盛と 子守青葉の 笛を吹き :一は麦笛
  • 二八と 聞て敦盛を 打ちかねる :蕎麦に二八あり
  • 敦盛の 御年に蕎麦の 値がきまり :蕎麦に二八あり
  • 敦盛は 第一道具 惜しみなり :青葉の笛など腰に
  • 敦盛を 扇であふぐ 一の谷 :さます様に
  • かへさせ玉へと 敦盛の 蕎麦を強ひ :暖盛と敦盛の秀句
  • 敦盛の 碑にぶつかける 濱砂場 :ぶつかけ蕎麦『川柳大辞典』上巻 大曲駒村 日文社 昭和30年

【一ノ谷の戦い関連】
  • 花やかに 蕾もしぼむ 一の谷 :二八の若武者
  • その後は 衣で通る 一の谷 :蓮生坊と變り
  • ひどいかち 歩まで成り込む 一の谷 :義経の軍乱入
  • 一の谷 六の方から さかおとし :一の裏は即ち六
  • わざわひは 上から起る 一の谷 :諺は下からとあり『川柳大辞典』上巻 大曲駒村 日文社 昭和30年

2.狂歌

  • 浄土にも 剛の者とや 沙汰すらん 西にむかひて 後ろみせねば  蓮生
    建久6年(1195)に、不背西方の念仏行者として、馬に逆さに乗って念仏を唱えながら熊谷に下った。武士として敵に背を向けない直実であったが、仏門に入っても、西方浄土に後を見せないという蓮生の信仰堅固を著した歌。『法然上人行状絵図』

  • 我も其 阿弥陀笠きて 咲く花に うしろハ見せぬ 熊谷さくら
    江戸時代後期の狂歌師三陀羅法師(1731-1814)が、文化5年(1808)3月13日熊谷を訪れ、漢学者青木金山主宰の石上寺で開催された書画会に、窪天民、浦上春琴、谷文一、釧雲泉らと共に臨席した際に詠んだもの。直実の歌詠「浄土にも 剛のものとや さたすらん 西に向ひて うしろ見せねば」に拠ったもの。
石上寺三陀羅法師歌碑
  • 熊谷の 宿に名高き 故にこそ よくもうちたり あつもりの蕎麦
    江戸時代後期の戯作者、十返舎一九(1769-1831)が、『続膝栗毛』の中の弥次さんが熊谷宿の蕎麦屋「梅本」を訪れた時に詠んだもの。

  • おーいおーいと呼びもどし わづか二八のあつもりを 打つてだしたる熊谷の宿  蜀山人
    蜀山人が、熊谷の鎌倉町入口のうどん屋「角屋」に早朝訪れうどんを注文すると、番頭に「こんな早くからうどんはない」と断られた。そこで、熊谷寺門前の方へ立ち去ろうとすると、この店の主人が「こんな朝早くからうどんを食べにくるのは余程好きな人に相違ないから呼び戻して出してやれ」と言うので、番頭が店先に出て、呼び戻したことを詠んだもの。須磨の浦で、直実が敦盛を呼び戻したこと、うどんの値段が二八の十六文であったのを、敦盛の年齢一六歳に掛けて詠んでいる。 『幽嶂閑話』林有嶂 昭和10年

  • 焼立る はたごの飯の あつもりを 手にかけて食ふ 熊谷の宿  読人不知
    熊谷の宿屋で、炊きたてのご飯を椀によそって客に出し、旅人達がそれを手にとって食べる様を詠んだもので、直実が敦盛を手に掛けて首を取った故事を踏まえている。 「新撰狂歌集」新日本古典文学大系61 岩波書店 平成5年

  • 敦盛と かの直実が ふるまひは 日本一の 谷とこそきけ  宗也
    日本一の武者敦盛と直実の振舞いを日本一と褒め讃え「一の谷」に掛けている。 「新撰狂歌集」新日本古典文学大系61 岩波書店 平成5年

3.俳句

  • 若武者の 腰に名笛 匂ひ草
  • やるせなく 出家の願ひ 春の虹 『平家物語と俳句』 暁 萌吾 新典社 1997年

  • 熊谷に 敦盛咲けや けしの花  (萬子) 『草刈笛』支考 1703年

  • 熊谷も はては坊主や けしの花
    延享2年(1745)4月、横井也有が第8代尾張藩主宗勝のお供をして江戸から帰る時に詠んだ句。 『鶉衣』拾遺「岐岨路紀行」 石井垂穂 1823年

  • 組で落る 花は熊谷 櫻哉  卜龍
  • 熊谷は 一騎当千の 櫻哉  定好
  • 熊谷や 花散る跡や ツホロ坊  壽治
  • 風やはらふ 熊谷櫻 ツホロ坊  重故
  • 夕べにや 熊谷櫻 ツホロ坊  友房
  • 鉈のうねに 熊谷櫻や ツホロ坊  近由
  • 六法や しのび熊谷 櫻哉  長松
  • 熊谷櫻 蓮の池の 法の花  柳鳥
  • 熊谷櫻 散にし跡や ツホロ坊  一歩 『玉海集』 貞室 明暦2年

4.漢詩

【蓮生坊上人】
  • 風雲汗馬骨稜々 一剣星驚悟上乗 八萬金蓮華世界 英雄本地即高僧 岸澤椎安

【蓮生坊上人】
  • 抛棄干戈百錬剛 發心一悟入蓮坊 高僧英傑元同趣 開闢板東念佛場 林 幽嶂

【蓮生坊上人】
  • 鐵騎百戦驍名祟 搭得緇衣馬首東 影冷蓮生山畔月 英魂長睡梵王宮 林 幽嶂
  • 鐵騎百戦驍名祟 一絡緇衣馬首東 仰見蓮生墳畔月 英魂長睡梵王宮 林 幽嶂

【蓮生法師】
  • 恩讐一擲入宗乗 門外人呼倒騎僧 南北東西何處在 無邊法界月清澄 塚本柿屋

【蓮生法師】
  • 一境蒼苔秋已中 蓮生山畔憶英雄 誰識野戦攻城績 不及衆生濟度功 鈴木碧堂

【蓮生法師】
  • 勇武元知欺孟賁 當年威望撼乾坤 溪城壓敵驍名挙 攝海憐讐仁義尊
    狡免死兮良狗煮 豺狼傲矣正人寃 英雄畢竟見機敏 早脱紛塵入釋門 鈴木碧堂

【熊谷直実公】
  • 踊来西向倒騎詞 鐵石心膓甞不差 憶得熊公濟生志 早看攝海挙元時 鈴木碧堂
    『熊谷郷土會誌』第4号 熊谷郷土會 昭和14年

5.和讃

仏・祖師・先人の徳などに対し、褒め讃える賛歌

1.「熊谷発心和讃」

帰命頂禮熊谷の 発心なせし物がたり
されば熊谷直実は 日本無双の勇士とて
一の谷のたたかひに 我子の直家共どもに
先進おっかけ乗出し 敦盛卿を討たまひ
我子直家敵の矢に 疵を受ても悲しきに
敦盛卿のちちははは さぞや歎せ玉ふらん
其の若君の追善に 自ら菩提の為なりと
高名誉れの其身をば 墨の衣でかくれつつ
圓光大師の弟子となり 蓮生法師と名をかへ
弥陀の他力に取すがり 念佛修行なし玉ひ
建永元年秋のころ 我が往生は今ぞとて
西に向て手を合せ 高聲念佛唱へつつ
光を放ち身を照らす 庭には紫雲たなびき
観音勢至にいざなはれ 世に珍しき往生の
跡をしめすは押なへて 感歎せざる人はなし 稲村修道編『布教新案 和讃説教』「熊谷発心和讃」明治43年

2.「熊谷発心和讃」

帰命頂来一の谷 そもそも熊谷直実は 頼朝公の臣下にて
阪東一の旗頭 智勇兼備の大将と 世にも知られし勇士なり
されば元禄元年の 源平須磨の戦ひに 功名ありしもののふの
聞くもなかなか憐れなり 其時平家の武者一騎 沖なる船に後れじと
駒を浪間に打入れて 一町ばかり進みしを 扇をあげて呼び戻し
互にしのぎを削りしが 見れば二八の御顔に 花を粧ふ薄化粧
かね黒々とつけ給ふ かかる優しき扮装に 君は如何なる御方ぞ
名乗り給へとありければ 下より御聲爽かに 「われは平家の大将と
参議経盛三男の 無官の太夫敦盛ぞ 早々首をうたれよ」
西に向ひて手を合す 流石にたけき熊谷も 我子の事を思ひやり
落る涙もとどまらず 鎧の袖をしぼりつつ 是非なく太刀を振上て
波阿弥陀仏の聲共に 首は前にぞ落ちにけり むざんや花の蕾さへ
須磨の嵐と散りにけり 之を菩提の種として 跡を弔ひ申さんと
御骸に言ひ遺し 青葉の笛を取添へて 八島の陣へ送りしは
實に情ある武夫の 心の内ぞ憐れなり 其身は終に世を遁れ
蓮生法師と名乗つつ 圓光大師を師と頼み 剃髪法衣の身と成って
晝夜念佛怠らず 日出度往生遂げ給ふ
蓮生法師詠歌に 一の谷二の谷超へて黒谷の 松に鎧を掛けてよろこぶ 酒井天外『熊谷蓮生物語』昭和11年

3.「一の谷組討和さん」

須磨のうらべのたたかいに をち武者一つ騎海上に
熊谷はるかなこなたより かへさせ玉へとよばわりて
扇を上て近よれば 年は二八の若武者が
ひをどしよろひに身をかため 幼顔にぞ覚へあり
経盛公の御末子 敦盛公と見るよりも
うつもしのびず児のかわせ 身方群勢ひこへごへに
熊谷次郎直実は 二た心なりとよばわれば
是非に及ばず敦盛を うち奉りし其の日より
都をさしてずはせ登り 身を黒谷の上人に
御法をさづかり弟子と成 よろひも今は黒染の
すがたとなって其名をば 蓮生法師と改て
敦盛公の御菩提と 弔ひ玉ふぞ有難や
なんなく平家を責おとす 須磨の浦べのたたかいに
平家の一門ことごとく 御ふねに召されて海上を
はるかにこぎだし玉ひけり 爰に哀を留めしば
敦盛卿の身のうへぞ 青葉の笛を須磨寺に
落させ玉へばそれよりも 駒をかへして御笛を
たづさへなぎに出玉ふ 早御座舟も兵舟も
残す沖へこぎいだす 乗おくれしが口惜や
全方浪に駒をいれ 老武者成ば此時に
駒の三塗にのりさがり 駒に手綱を打くれて
のらせ玉ふは御ござにも つくべきものを哀にも
いまだ二八の若武者で 駒の手綱を引しぼり
海上はるかに乗いだし いちもつ名馬と申せども
浪にゆられてただよへり かかる折しも後より
熊谷次郎直実は あなたこなたをかけ廻り
てき将あらは引くんで 高名手柄をいたさんと
浦辺をさして出ければ はるか向の海上に
ほろかけ武者を見るよりも はらりとひらけば五本骨
日の丸打たる扇子にて
早べこ
やあやあそれにうあせ玉ふは平家方の御きんたちと見奉りまざのふもてきに後を見せ
玉ふか引返して勝負あれかく申それがしは源氏方でかくれなししのとをのはた頭熊谷の次郎たんじ直実けんざんけんざんと
声かけられて敦盛は 何かいうよの有べきぞ
駒をかへして近よれば 熊谷次郎も進みより
たがひに打物抜かざし ちょをちょをはつしちょをはつし
はつてははづしの早わざや よをに開けばじゆんにとぢ
じゆんにひらけはよをにとぢ とさの入江の舟ちがへ
ひらいしよをじに捨がたな しばし間のたたかひに
勝負もはてしあらざれは いざや組んとあつもりは
打もの牧捨玉ひけり げにしをらしと熊谷も
かた押ならべてむづとくむ えいやえいやの声のうち
たがひにあぶみをふみはづし 両馬があいにどうとおつ
すわやと見る間に熊谷は 敦盛卿を組ふせて
よくよく御面見上ぐれば 年は二八の若武者で
緑の眉ずみ細やかな 口には丹花を含みつつ
ふよををねだむ風情也 熊谷次郎は声をかけ
いかに若君聞し玉へ 御運きはまる此上は
御名を名乗熊谷に てがらをゆづり玉へかし
尋に敦盛やさしげに 名乗まじとは思へども
今は何をかつつむべし 我こそ平家にかくれなし
むかんの太夫敦盛と なのり給へば熊谷は
我子のことを思ひやり 御心をかんじ玉ひつつ
人間界に生れきて 子を思ふ身はみなひとつ
南天竺はまかだこく 釈迦牟尼世尊の古は
上梵王の御子にて しった太子と申せしが
娑婆の無常をかんじつつ 王宮を出させ玉ふとき
羅護らを哀み玉ひしと 末の世迄も云つとふ
頃は十月十五日 だんどく山へ登られて
ごんぐ六年したもふも 衆生済度の為ぞかし
かかるたつとき御仏も 御子をあわれみ玉ふなり
底下薄地のばんぶにて 経盛卿の御こころ
思ひやられて熊谷は ひたんの涙にくれけるが
何思ひけん引をこし 鎧のちりを打はらい
当りに敵もあらざらん 早や落玉へと進めやり
左右に分るる折からに 後の山より声をかけ
熊谷こそはふた心ろ 平家の大将あつもりを
組式ながらたすけるは 君に二ちやうの弓をひく
熊谷諸とも打とれと よばはる声にもくぜんと
しあんの内に敦盛は いかに熊谷よくにきけ
爰は汝がなさけにて しゆびよくのがれ出るとも
また行さきに敵ありて 名もなきもののてにかかり
むなしくなるもまつ代の 恥辱となれば今ここで
われを打とりなきあとの 回向をたのむ熊谷と
西に向ひて手をあわせ 首差のべてまちたもを
是非もなくなく敦盛の 今は後にたちまわり
口に称名目になみだ 弥陀の利剱と観念し
首は前にぞ落にけり 打奉りしその日より
都をさして登らるる 身を黒谷の上人に
法をさづかり弟子と成 蓮生法師とあらためて
剃髪なさるる其時は 四方浄土とすりこぼす
きのふのよろひに事かはり 墨の衣に墨のけさ
てには念珠をたづさへて 朝夕とのふる念仏も
敦盛卿の御為と 唱へ玉ふぞありがたや
南無阿弥陀仏 『浄土和讃図会』白隠 天和三年

『浄土和讃図会』 国文学研究資料館蔵

4.「熊谷発心の和さん」

帰命頂礼熊谷の 発心なせし物がたり
されば熊谷直実は 日本無双の勇士にて
一の谷のたたかひに 我子の直家共どもに
先進おっかけ乗出し 敦盛卿を討たまひ
我子直家敵の矢に 疵を受けても悲しきに
敦盛卿のつつははは さぞや歎せ玉ふらん
其の若君の追善に 自ら菩提の為なりと
高名誉れの其身をば 墨の衣でかくれつつ
円光大師の弟子となり 蓮生法師と名を替て
弥陀の他力に取すがり 念仏修行なし玉ひ
建永元年秋のころ 我が往生は今ぞとて
西に向て手を合せ 高声念仏を唱えつつ
光を放ち身を照らす 庭に紫雲たなびきて
観音至勢にいざなはれ 世に珍らしき往生の
跡をしめすは押なへて
感歎せざる人はなし 南無阿弥陀仏 『浄土和讃図会』白隠 天和三年

『浄土和讃図会』 国文学研究資料館蔵