川柳・俳句・狂歌・漢詩等に詠まれた直実・蓮生、敦盛などについて紹介します。
目次
仏・祖師・先人の徳などに対し、褒め讃える賛歌
帰命頂禮熊谷の 発心なせし物がたり
されば熊谷直実は 日本無双の勇士とて
一の谷のたたかひに 我子の直家共どもに
先進おっかけ乗出し 敦盛卿を討たまひ
我子直家敵の矢に 疵を受ても悲しきに
敦盛卿のちちははは さぞや歎せ玉ふらん
其の若君の追善に 自ら菩提の為なりと
高名誉れの其身をば 墨の衣でかくれつつ
圓光大師の弟子となり 蓮生法師と名をかへ
弥陀の他力に取すがり 念佛修行なし玉ひ
建永元年秋のころ 我が往生は今ぞとて
西に向て手を合せ 高聲念佛唱へつつ
光を放ち身を照らす 庭には紫雲たなびき
観音勢至にいざなはれ 世に珍しき往生の
跡をしめすは押なへて 感歎せざる人はなし
稲村修道編『布教新案 和讃説教』「熊谷発心和讃」明治43年
帰命頂来一の谷 そもそも熊谷直実は 頼朝公の臣下にて
阪東一の旗頭 智勇兼備の大将と 世にも知られし勇士なり
されば元禄元年の 源平須磨の戦ひに 功名ありしもののふの
聞くもなかなか憐れなり 其時平家の武者一騎 沖なる船に後れじと
駒を浪間に打入れて 一町ばかり進みしを 扇をあげて呼び戻し
互にしのぎを削りしが 見れば二八の御顔に 花を粧ふ薄化粧
かね黒々とつけ給ふ かかる優しき扮装に 君は如何なる御方ぞ
名乗り給へとありければ 下より御聲爽かに 「われは平家の大将と
参議経盛三男の 無官の太夫敦盛ぞ 早々首をうたれよ」
西に向ひて手を合す 流石にたけき熊谷も 我子の事を思ひやり
落る涙もとどまらず 鎧の袖をしぼりつつ 是非なく太刀を振上て
波阿弥陀仏の聲共に 首は前にぞ落ちにけり むざんや花の蕾さへ
須磨の嵐と散りにけり 之を菩提の種として 跡を弔ひ申さんと
御骸に言ひ遺し 青葉の笛を取添へて 八島の陣へ送りしは
實に情ある武夫の 心の内ぞ憐れなり 其身は終に世を遁れ
蓮生法師と名乗つつ 圓光大師を師と頼み 剃髪法衣の身と成って
晝夜念佛怠らず 日出度往生遂げ給ふ
蓮生法師詠歌に 一の谷二の谷超へて黒谷の 松に鎧を掛けてよろこぶ
酒井天外『熊谷蓮生物語』昭和11年
須磨のうらべのたたかいに をち武者一つ騎海上に
熊谷はるかなこなたより かへさせ玉へとよばわりて
扇を上て近よれば 年は二八の若武者が
ひをどしよろひに身をかため 幼顔にぞ覚へあり
経盛公の御末子 敦盛公と見るよりも
うつもしのびず児のかわせ 身方群勢ひこへごへに
熊谷次郎直実は 二た心なりとよばわれば
是非に及ばず敦盛を うち奉りし其の日より
都をさしてずはせ登り 身を黒谷の上人に
御法をさづかり弟子と成 よろひも今は黒染の
すがたとなって其名をば 蓮生法師と改て
敦盛公の御菩提と 弔ひ玉ふぞ有難や
なんなく平家を責おとす 須磨の浦べのたたかいに
平家の一門ことごとく 御ふねに召されて海上を
はるかにこぎだし玉ひけり 爰に哀を留めしば
敦盛卿の身のうへぞ 青葉の笛を須磨寺に
落させ玉へばそれよりも 駒をかへして御笛を
たづさへなぎに出玉ふ 早御座舟も兵舟も
残す沖へこぎいだす 乗おくれしが口惜や
全方浪に駒をいれ 老武者成ば此時に
駒の三塗にのりさがり 駒に手綱を打くれて
のらせ玉ふは御ござにも つくべきものを哀にも
いまだ二八の若武者で 駒の手綱を引しぼり
海上はるかに乗いだし いちもつ名馬と申せども
浪にゆられてただよへり かかる折しも後より
熊谷次郎直実は あなたこなたをかけ廻り
てき将あらは引くんで 高名手柄をいたさんと
浦辺をさして出ければ はるか向の海上に
ほろかけ武者を見るよりも はらりとひらけば五本骨
日の丸打たる扇子にて
早べこ
やあやあそれにうあせ玉ふは平家方の御きんたちと見奉りまざのふもてきに後を見せ
玉ふか引返して勝負あれかく申それがしは源氏方でかくれなししのとをのはた頭熊谷の次郎たんじ直実けんざんけんざんと
声かけられて敦盛は 何かいうよの有べきぞ
駒をかへして近よれば 熊谷次郎も進みより
たがひに打物抜かざし ちょをちょをはつしちょをはつし
はつてははづしの早わざや よをに開けばじゆんにとぢ
じゆんにひらけはよをにとぢ とさの入江の舟ちがへ
ひらいしよをじに捨がたな しばし間のたたかひに
勝負もはてしあらざれは いざや組んとあつもりは
打もの牧捨玉ひけり げにしをらしと熊谷も
かた押ならべてむづとくむ えいやえいやの声のうち
たがひにあぶみをふみはづし 両馬があいにどうとおつ
すわやと見る間に熊谷は 敦盛卿を組ふせて
よくよく御面見上ぐれば 年は二八の若武者で
緑の眉ずみ細やかな 口には丹花を含みつつ
ふよををねだむ風情也 熊谷次郎は声をかけ
いかに若君聞し玉へ 御運きはまる此上は
御名を名乗熊谷に てがらをゆづり玉へかし
尋に敦盛やさしげに 名乗まじとは思へども
今は何をかつつむべし 我こそ平家にかくれなし
むかんの太夫敦盛と なのり給へば熊谷は
我子のことを思ひやり 御心をかんじ玉ひつつ
人間界に生れきて 子を思ふ身はみなひとつ
南天竺はまかだこく 釈迦牟尼世尊の古は
上梵王の御子にて しった太子と申せしが
娑婆の無常をかんじつつ 王宮を出させ玉ふとき
羅護らを哀み玉ひしと 末の世迄も云つとふ
頃は十月十五日 だんどく山へ登られて
ごんぐ六年したもふも 衆生済度の為ぞかし
かかるたつとき御仏も 御子をあわれみ玉ふなり
底下薄地のばんぶにて 経盛卿の御こころ
思ひやられて熊谷は ひたんの涙にくれけるが
何思ひけん引をこし 鎧のちりを打はらい
当りに敵もあらざらん 早や落玉へと進めやり
左右に分るる折からに 後の山より声をかけ
熊谷こそはふた心ろ 平家の大将あつもりを
組式ながらたすけるは 君に二ちやうの弓をひく
熊谷諸とも打とれと よばはる声にもくぜんと
しあんの内に敦盛は いかに熊谷よくにきけ
爰は汝がなさけにて しゆびよくのがれ出るとも
また行さきに敵ありて 名もなきもののてにかかり
むなしくなるもまつ代の 恥辱となれば今ここで
われを打とりなきあとの 回向をたのむ熊谷と
西に向ひて手をあわせ 首差のべてまちたもを
是非もなくなく敦盛の 今は後にたちまわり
口に称名目になみだ 弥陀の利剱と観念し
首は前にぞ落にけり 打奉りしその日より
都をさして登らるる 身を黒谷の上人に
法をさづかり弟子と成 蓮生法師とあらためて
剃髪なさるる其時は 四方浄土とすりこぼす
きのふのよろひに事かはり 墨の衣に墨のけさ
てには念珠をたづさへて 朝夕とのふる念仏も
敦盛卿の御為と 唱へ玉ふぞありがたや
南無阿弥陀仏
『浄土和讃図会』白隠 天和三年
帰命頂礼熊谷の 発心なせし物がたり
されば熊谷直実は 日本無双の勇士にて
一の谷のたたかひに 我子の直家共どもに
先進おっかけ乗出し 敦盛卿を討たまひ
我子直家敵の矢に 疵を受けても悲しきに
敦盛卿のつつははは さぞや歎せ玉ふらん
其の若君の追善に 自ら菩提の為なりと
高名誉れの其身をば 墨の衣でかくれつつ
円光大師の弟子となり 蓮生法師と名を替て
弥陀の他力に取すがり 念仏修行なし玉ひ
建永元年秋のころ 我が往生は今ぞとて
西に向て手を合せ 高声念仏を唱えつつ
光を放ち身を照らす 庭に紫雲たなびきて
観音至勢にいざなはれ 世に珍らしき往生の
跡をしめすは押なへて
感歎せざる人はなし 南無阿弥陀仏
『浄土和讃図会』白隠 天和三年