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熊谷直実が生きた中世とはどんな時代だったのでしょうか。
中世の世の中の仕組みは、「封建制度」とみなされています。封建制度とは何か。これを理解するための重要な語句を三つだけとりあげると、分権・領主・土地という三つのキーワードになります。
一つ目の「分権」とは、権力がいろいろな所にあるということです。国家が強大な力を持っている古代律令国家とは違い、また、近世、天下統一が成し遂げられた後の幕藩体制の時代、江戸時代とも違います。もちろん近代の資本主義・帝国主義の時代とも違います。世の中が、分権的な構造をもっていて、都には、荘園領主となる天皇家・貴族・神社が大きな力を持っています。他方、地域社会では、地頭や守護となった武士が大きな権力を握っています。このように、いずれもが領主として重要な権限を握っており、いろいろな所に権力が分散している時代。これが中世の封建制度です。
二つ目に「領主」です。その分権化された権力を担う主体を領主と呼びます。領主の権利の一つは、経済制度として認められている権利です。例えば、地頭という職分として「おまえは取り立てた税金のうち、この部分は取ってよい」と認められている権利を指します。その他には、経済外的な強制力、すなわち暴力を背景に慣習的に認められている支配権があります。経済制度以外の力で、人から何かを収奪することが権利として認められている、いわゆる「自力救済」が世の中のルールになっているのです。自分の権利は自分で守らないと成り立たないという、過酷な世の中でした。
三つめに「土地」です。人間関係が土地を媒介にして成り立っています。これは鎌倉幕府の将軍と御家人の関係を考えていただければわかりやすいと思います。将軍から恩賞として土地が与えられ、そのことによって、御家人たちは将軍に対して勤めを果たす、つまり命をかけて戦う義務が生まれます。
この三つのキーワードが「封建制度」を考えるうえで、重要なポイントです。
こうした中世社会を支える土地制度を「荘園制」と呼びます。この荘園制の根幹である荘園は、中世という時代を通じて、その内容・形を変えながらも存在しています。そして、荘園制は戦国期まで残ると考えられています。この荘園制の中で、中世が育まれ、中世が進化していくのだと考えられています。
初めての武家の政権として、国家権力の軍事部門を担っていく鎌倉幕府も、この荘園制の中で成立しました。何よりも鎌倉幕府というのは、強大な荘園領主です。いわゆる「関東御領」などと呼ばれるもろもろの荘園をもっており、その荘園を維持していく政策を次々に打ち出していきます。それによって、自分たちの経済基盤を安定させていきます。次々に荘園保護政策を打ち出していって、社会の枠組みとしての荘園制を守ろうとしました。
荘園制は、遅くとも一二世紀には上皇の強大な権力のもとで、本格的に世の中に広まっていきます。そしてその中で武士たちも自分たちの所領を築いていきます。熊谷直実もその制度の中で、自らの所領を確保するために一所懸命に戦いました。
この荘園制は、室町時代まで形を変えて維持されていきます。そして最終的には豊臣秀吉に拠る太閤検地によって、荘園制的な関係が破壊されます。この太閤検地によって、大名と農民との直接的な関係が形成されることが、荘園制の終焉と考えられています。
つまり熊谷直実・法力房蓮生が生きた中世という時代は、封建制度によって武士の権利が認められていた時代、そして荘園制によって社会が形作られていた時代といえるでしょう。
直実の生年は諸説ありますが、永治元年(1141)に熊谷の館で生まれたと考えられています。幼名は弓矢丸。父直貞は直実が2歳の時に亡くなったため、母の弟である久下直光に育てられ、かぞえ年15歳で元服します。
そして保元元年(1156)に起こった保元の乱では、16歳の若さで初陣し、源義朝の配下として活躍しました。その後、平治元年(1159)に平治の乱が起こり、直実は再び源義朝方として奮戦しましたが、義朝方は敗戦、直実も故郷熊谷の地に帰ってきました。この戦いで勝った平清盛は、その後政治の実権を握り、平氏の全盛時代がおとずれます。
治承4年(1180)、伊豆に流されていた源頼朝が挙兵します。直実は平知盛に仕えていたこともあり、当初は平家方の武士として戦いに参加していましたが、石橋山の合戦以後は源氏方の武士として多くの戦いに参加します。特に治承4年に佐竹氏を攻めた金砂山合戦では抜群の功績をあげ、源頼朝をして“坂東一の剛の者”と言わしめたと南北朝時代の書物『神皇正統記』には書かれています。
その後の木曽義仲との戦い、平氏との戦いにおける活躍は目覚しく、多くの逸話が生まれますが、その中でも源平合戦における「一ノ谷の戦い」は有名です。『平家物語』の「敦盛最期」では、須磨浦を落ちていく弱冠16才、自分の息子の直家と同じような年齢の平敦盛を泣く泣く討ち、武士の無情を感じさせます。その後、直実が合戦で活躍する場面は、『平家物語』などにも見られなくなります。
直実が浄土宗の開祖である法然上人の門をたたき、出家して法力房蓮生法師となった理由に関しては、「平敦盛を討ったことにより世の中の無常を感じたため出家したとする説」と、「久下氏との領地争いの裁判の中で自分の主張がうまく伝えられず、その場から飛び出し、そのまま出家したとする説」があります。
しかし、『吾妻鏡』によると裁判は建久3年(1192)のことで、熊谷家に代々伝わる「熊谷家文書」には、建久2年の史料に「地頭僧蓮生」とあり、すでに出家していたことがわかりますので、恐らくは戦いの世に無常を感じて、出家したのかもしれません。
『吾妻鏡』によると、領地争いの裁判での不服から私宅を飛び出し、髻を切って京都へ向かう途中、専光房という僧侶の説得を受けましたが聞き入れず、武蔵国に隠居し、翌年出家したとあります。また「法然上人行状絵図」第27巻には、京都の聖覚法印の房を訪ねた時、聖覚法印から法然上人を紹介され、上人から「ただ、念仏を唱えれば往生する」との言葉をいただいたことに感動し、法然上人の弟子となった、とあります。こうして、法然上人の弟子となった直実は出家し、法力房蓮生法師として念仏三昧の日々を送ることとなります。
京都知恩院にある国宝「法然上人行状絵図」第27巻には、蓮生法師の様々な逸話が描かれています。それには、浄土宗の教えに対して忠実に、懸命に修行を行ったことから、法然上人をして“坂東の阿弥陀ほとけ”とまで言わしめたと記されています。
さらに、全国各地に蓮生法師ゆかりの寺院があることも大きな特徴です。本市の熊谷寺をはじめ、蓮生法師が開いたとされるお寺は京都、兵庫、静岡、長野などにあり、蓮生法師の徳を慕う人々が、全国にいたことがわかります。
このように多くの人々の慕われた蓮生法師ですが、いよいよ浄土往生の時を迎えます。亡くなった年、年齢、場所については諸説ありますが、「法然上人行状絵図」では建永2年(改元して承元元年、1207)9月4日に、熊谷家の館西にあった念仏庵にて往生された。この往生にも逸話があり、はじめは2月8日に往生すると宣言していたにもかかわらず、当日になって9月4日に変更し、往生したとあります。また、承元2年(1208)9月14日に京都黒谷で亡くなったとする『吾妻鏡』の説もあります。
いずれにしても、こうした絵巻や記録に残るということは、当時の人々が蓮生法師に対して非常に関心を寄せており、その徳を慕う人々が大勢いたということを示していると考えられます。
熊谷氏の由来をたずねると、熊谷氏の関する系図は簡単にみつかるだけで5本もあり、このほかにもたくさんの熊谷氏関連の系図があると考えられます。そして、それぞれの系図での直実の記述を比べると、生まれた年や場所、亡くなった年や場所が系図によって違います。ですので、系図に信をおくことは慎重にならなくてはなりません。そうした前提の中で、熊谷氏が全国どのような地域に分布していたかを見ていきます。
まず、直実の兄とされる直正についてですが、直正の系譜は、近江国塩津庄の地頭職を得たとされています。系図を見てみると、直正の直系は一度途切れていますが、直実の系譜から直正の系譜に養子に入り、一族が繋がっているようです。この系統からは室町幕府奉公衆となった熊谷氏や、近江国から山城国へ出て商売を始め、現在の東京銀座で商売を営む鳩居堂の熊谷氏へとつながる熊谷氏などがいます。
直実の系統に着目すると、直実の嫡男直家の次男直宗が、奥州合戦の勲功により、気仙沼本良に地頭職を得たとされています。その後、熊谷氏は東北地方に一族を広げ、現在も東北地方、特に宮城県と秋田県には多くの熊谷氏がいます。
(西)熊谷郷を直実から引き継いだ熊谷氏は、現在では嫡男直家の系統ではなく、国指定重要文化財「熊谷家文書」の「熊谷蓮生譲状」にその名が書かれている真家の系統と考えられています。しかし真家は熊谷氏に関する系図上では名前を見つけることができず、今後も調査が必要です。
それを前提に、直実から数えて三代後の直国のとき、承久の乱がおきます。そのとき直国が京都で討死した勲功により、直国の子の直時が安芸国三入庄の地頭職を得ます。この熊谷氏の系統は、他に美濃国や紀伊国にも所領を得ますので、それらの地方へ熊谷氏の一族が広がっていきます。この(西)熊谷郷系の熊谷氏は、南北朝時代に三入庄系熊谷氏が一族内の主導権を握ることで、次第に氏の本拠地を三入庄へ移していきます。そして室町時代の中頃には、三入庄が熊谷氏の本拠地となり、戦国時代を迎え、戦国大名毛利氏の重臣となります。戦国時代に関東地方で忍城主として活躍した成田氏の家臣団名簿「成田氏分限簿」を見ると、その中には熊谷氏の名前がありませんので、戦国時代より前には熊谷氏は(西)熊谷郷から三入庄へ移住してしまっていたと考えられます。
平安時代末期の武将。嘉応元年(1169)に平経盛の子として生まれる。位は従五位下だが官職を得なかったため、俗に「無官大夫」と呼ばれた。篳篥の名手として伝えられる。
『吾妻鏡』によれば、元暦元年(1184)2月7日の一ノ谷の戦いで、兄・経正、経俊とともに戦死した。16歳と伝わる。『平家物語』によれば、海上に逃れようとしたところ、源氏方の熊谷直実に呼び止められ、引き返してこれと戦い、敗れて頸をかかれたという。この『平家物語』の伝承をもとに、謡曲「敦盛」や人形浄瑠璃「一谷嫩軍記」が作られた。
平安時代末期の浄土宗を開いた僧侶。法然は房号。
美作国久米郡の稲岡荘で漆間時国の子として生まれる。永治元年(1141)に父が預所の明石氏の夜襲を受けて討死すると、その年の内に天台宗菩提寺の観覚のもとに預けられる。久安三年(1147)に比叡山に登り、源空と称する。その後、慈眼房叡空に師事して法然房と号す。当時黒谷別所では恵心流の浄土教が盛んであったため、源空も浄土教に傾き、源空の伝記は十数種あるが、浄土宗を開いたのはほぼ安元元年(1175)であったと記す。その前後に東山の麓、大谷の吉水に移ったと伝える。関白九条兼実の要請によって『選択本願念仏集』を著した。その教義の広がりから旧仏教教団の批判を受け、その対立から承元元年(1207)に土佐国へ流罪になるなどした。その後、大谷に戻った建暦二年(1212)に80歳にて入寂した。